角川文庫    黒豹の鎮魂歌 第一部 [#地から2字上げ]大藪春彦   目 次  海を|穢《けが》す者  |復讐《ふくしゅう》の第一歩  パ リ  オージー・パーティ  ブラック・ミサ  刺 客  再びアムスで  |断《だん》 |崖《がい》  祈 り     海を|穢《けが》す者      1  運河とエロスの街、オランダのアムステルダムに、日本商工会館がある。  元首相の沖と、沖の一の子分で、次期首班の|椅《い》|子《す》を|狙《ねら》っている富田大蔵大臣が、財界から金を集めて作ったものだ。  その会館の表向きの顔は、オランダに日本の産業の実力を知ってもらうための民間PR施設だ。  しかし、裏に三つの役割を持っており、そのほうが本命だ。  第一は、沖—富田派の資金ルートの海外拠点の役割である。たとえば、|次期戦闘機《エフ・エックス》をファントムに決めるために沖—富田派が果たした功績に対して十億円のリベートが支払われたが、それはドルで日本商工会館の館長であり、沖の第二秘書であり代理人である川上に支払われた。  日本国内の財界から政治献金という名目で湯水のように入ってくる|賄《わい》|賂《ろ》の五分の一は、ユダヤ系の銀行を通じてアムステルダムの日本商工会館に送られ、そこで川上の手によって、スウィスの銀行に信託されたり、ヨーロッパやアメリカの成長企業に投資されたりしている。  無論、日本に革命が起こったり、北からの侵略で体制が引っくり返されたりしたときにそなえてだ。それと第二の役割にもその金は使われる。  第二の役割は、陰の大使館としてのものだ。沖や富田にかぎらず沖—富田派の政財界人は、ヨーロッパに旅行したときはそのアムステルダム日本商工会館に寄ってドルを受取り、女や宝石や投資用の絵画を買いあさるのだ。  絵と言えば、沖が買うときには、画廊に行くと、並べられている絵の左端と右端を示し、 「あそこからあそこまで買う」  と言って、画商の度肝を抜かせるそうだ。  第三の役割は、小さなことだが、川上個人の財産の確保と蓄積の機能であり、年間一億円以上の金を、沖—富田派の資金から横領していることは、口止め料がわりとして黙認されている。  |新城彰《しんじょうあきら》は、ローマ、パリ、ロンドン、ハンブルク、ストックホルムとガイドしてきた日本の流行作家が帰国するのを、アムステルダム空港で見送ると、予約しておいた市内フェルドナンド・ストラートの格式高いレストラン、ディッカー&ティースに向かった。エイヴィスから借りたレンタ・カーのプジョー四〇四を、自転車だらけの狭い道を巧みに走らせる。  長いヨーロッパの生活のせいもあって、長身の新城の顔つきは、雰囲気と同様に日本人ばなれしていた。年は三十三歳。激しく迫った|眉《まゆ》と奥深い|瞳《ひとみ》が印象的だ。  頭に|手榴弾《しゅりゅうだん》の破片をくらって三年前に退役するまで、新城は四年間のあいだ、フランス軍秘密部隊に|傭《やと》われて、コルシカ島で対ゲリラ要員として働かされていたのだ。交戦で数えきれないほど死地をくぐった。  そして今は、日本から来た金持ちの観光客に、普通の観光コースでは絶対に味わうことが出来ない、ヨーロッパの秘密の快楽を体験させてやる一匹|狼《おおかみ》の高級ガイドとして生きているのだ。  かつての対ゲリラ秘密要員時代の同僚や上官や部下たちは、それぞれがさまざまな国籍や階級社会の出身であった。だから彼等を通じて紹介された快楽の秘密ルートが、今では新城のメシのタネになっているわけだ。  新城に案内された連中は、帰国してから口コミで宣伝してくれる……と言うより、異様な体験を自慢したい気持ちを押えることが出来ないから、パリとローマの一流ホテルの|世話係《コンセルジュ》を買収して連絡係りにしている新城は、時として好条件の客でも断わらねばならぬほど商売繁盛だ。  新城の実家は千葉の|君《きみ》|津《つ》|浜《はま》で漁業をやっていた。ノリとアサリと|雑《ざ》|魚《こ》を相手の零細漁業だ。だが、毎日の暮しに困るというほどではなく、豊かな海からの恵みで、新城が東京の大学を卒業できたほどだ。  しかし、昭和二十八年の川鉄千葉製鉄所の進出をキッカケとし、|京《けい》|葉《よう》工業地帯への巨大企業の進出は、三十二年に三矢不動産が県に替わって埋立て工事費や漁業補償金を立替え払いする協定が出来てから、急ピッチとなった。漁民の海は次々に大企業に奪われていった。政財界に思いのままに動かされる県は、漁民たちに高圧的な態度でのぞんだ。  昭和三十六年、マンモス企業九州製鉄も、どんなに公害を出しても県も町も文句を言わぬ京葉工業地帯に進出することを決めた。  |狙《ねら》われたのは、新城の実家がある君津地方であった。当時大学を卒業した新城は、丸の内にある海外旅行案内社の社員として、団体客に|添乗《てんじょう》して、アメリカや東南アジアやヨーロッパの観光コースを案内するのが仕事であった。  九州製鉄が君津に東洋一の製鉄所を建設するためには、社員住宅を含めて、|莫《ばく》|大《だい》な土地を必要とした。  当然ながら、漁民たちから海を奪って埋立て、農民たちから|畠《はたけ》を奪って盛土したり山を奪って切崩す。  漁業補償は、県や企業と漁業組合が取決める。だから、漁業補償金は組合に対して支払われるものであって、その配分は組合のボスに任されているわけだ。  新城の家が加入していた漁業組合の会長は、熱海に本拠を持つ広域組織暴力団銀城会の千葉支部最高幹部の一人であり、県会議員で県会土木常任委員もしていた小野徳三—|小《お》|野《の》|徳《とく》—であった。  貧しい古物商のセガレとして生まれた小野徳は、|博《ばく》|徒《と》時代に漁業権を手に入れると、年によって出来不出来の差が大きく投機性のはなはだしいノリ養殖の漁民たちに高利の金を貸しつけて荒稼ぎすると共に、彼等を|賭《と》|場《ば》に引きずりこんでさらに財を増やし、町会議員を振りだしに利権あさりで得た金を政界にばらまいて、当時でも県会の実力者にのしあがっていたのだ。  小野徳は、九州製鉄君津製鉄所の従業員用食堂の経営を彼の一手に任されるという利権と引替えに、漁業組合の補償を法外に安く九鉄と県とのあいだで決めた。  組合員の大半は反対したが、小野徳には銀城会の暴力というバックがついていた。しかも、組合員には小野徳から借金している者が少なくなかった。小野徳から、今後は九鉄の守衛や食堂の従業員として|傭《やと》ってやるという約束をとりつけた、と言われると、反対の声は|鎮《しず》まった。  漁業補償金は普通一割から二割が現金で入り、あとは保証書や公債で渡される。新城の家に入ったノリとアサリの漁業権放棄に対する補償金はたった百万であった。  千葉の漁民はバクチ好きだ。金が無くなれば海で働けば何とかなるという気があるからだ。新城の父も例外ではなかった。  新城の父は二十万の一時金の現ナマを握ったあと、ほかの組合員たちと一緒に、バスで|白《しら》|浜《はま》の旅館に招待された。  酒と女があてがわれ、翌朝から|賭《と》|場《ば》がたった。見ているだけでは我慢出来なくなった父は、二十万の現ナマを元手にバクチに加わった。  夜までに百万を稼いだ父は熱くなった。気がついたときには保証書を担保として|捲《ま》きあげられただけでなく、さらに三百万の借金を背負っていた。  組合員のなかにも、新城の父と同じような目に会った者が少なくなかった。  だが彼等には|君《きみ》|津《つ》|浜《はま》に共同で持っている漁具や漁船置場の土地二万坪ほどが残っていた。ノリやアサリなどの漁業権は放棄したが、|雑《ざ》|魚《こ》の漁業権はまだ放棄したわけではないから、彼等はその土地を出来るだけ高く九州製鉄に売りつけようとした。  千葉の場合の企業用土地の埋立て事業は、いわゆる千葉方式という予納金方式で行なわれる。  つまり土地代金は埋立て事業費に漁業補償金を加えたものを県が進出企業に先払いさせておき、その金で県が埋立てを行なって、造りあげた土地を企業に引渡すわけだ。  しかし、埋立て予定地が決まっても企業の進出が決まらないときには、予納金が入らずに県の財政ではまかないきれないわけだ。  そんな時には、京葉工業地帯の最初の計画である|五《ご》|井《い》・|市《いち》|原《はら》地区埋立て地帯の工費を立替え払いして以来、京葉工業地帯の造成で荒稼ぎしている日本三大財閥の一つ三矢グループのなかの三矢不動産が立替え、実費で土地を手に入れて、あとで進出してくる企業に大きな利ザヤをとって売りつける。  だが君津地区の場合には九州製鉄の進出が決まっているから、新城の父たちが共有している漁船や漁具置場の土地の買収交渉は九鉄自体が行なった。  九鉄はまたも法外な安値をつけてきた。新城の父たちが、ふざけるな、と怒ると、 「どうぞ、ご自由に。売ってもらえなくても結構です。ですがね、共有地のまわりの海の埋立て権はうちのものですからね。まわりを埋められて、どうやって船を出し入れするんです?」  と、九鉄の庶務課の用地係長の岸村はせせら笑ったのだ。      2  結局、その共有地は時価の半値で買い|叩《たた》かれた。  その金を、土地を共有していた百人の仲間で分けると、新城の父は小野徳に借りたバクチの借金を返し切ることも出来なかった。  父はあせってますますバクチに|溺《おぼ》れ、ついに小野徳からの借金が一千万を越えたとき、妻と新城の二人の妹を道連れにして猟銃自殺をしてしまった。  小野徳は、銀城会の若い衆を引連れて通夜に戻っている新城彰のところに押しかけ、父の借金の証文を振りまわしながら、 「これをどうしてくれる? 金を返さない、とは言わせないぜ」  と、|凄《すご》んだ。 「父の借金を|俺《おれ》が返す義務は無い。それに、バクチの借金は法律で返さないでいいことになっている」  新城は小野徳を|睨《にら》み返した。 「何を生意気なことを抜かしてやがるんだ。おい、若造、この証文のどこに、バクチの借金だと書いてある? どうだ? 貴様のオヤジはな、どこかの女に狂ったんだろう。|儂《わし》のところに毎日のように泣きついてくるんで、|可《か》|哀《わい》そうに思って貸してやったんだ。さあ、返せ。一度に全部とは言わん。|月《げっ》|賦《ぷ》で返すと証文を書いてもらおう」  小野徳は迫った。 「断わる。帰ってくれ。しつこくつきまとうと、警察に訴える」  新城は叫んだ。 「馬鹿。|儂《わし》を誰だと思っているんだ。儂にはな、通産大臣から大蔵大臣になられた親分の富田先生、保守党幹事長の水木先生、それにもと首相の沖先生というバックがついているんだ。九鉄も三矢不動産も儂を|可《か》|愛《わい》がってくれている。それに、儂はいつまでも県会あたりでくすぶっている男じゃねえ。今に代議士様になる身だ。県警ごときが儂に手出しが出来るもんか。貴様、儂を|舐《な》めるんじゃねえぜ」  小野徳は残忍な表情で歯を|剥《む》いた。 「一丁、|可《か》|愛《わい》がってやりますか先生」  銀城会の男たちのうち代貸し格の安西というものが、サディスティックな笑いと共に言った。  小野徳はニヤニヤ笑った。  銀城会の男たちは一斉に襲ってきた。  新城は三人までは|叩《たた》き伏せたが、多勢に押えつけられ、半死半生の目に会わされた。一週間後、やっと歩けるようになった新城は警察に被害届を出したが、果たして何の捜査も行なわれなかった。  新城が会社に出ると、会社に銀城会の連中が押しかけてきて借金の返済を迫った。  新城の能力を高く買っていた会社は、新城をパリの支社付けにしてくれた。これでやっと新城は小野徳の手から逃れることが出来たが、その二年後、再び新城の運命を変える事件が起こった。  一家の命を奪った連中への|復讐《ふくしゅう》の念を絶やさなかった新城は、パリで生活するようになってから、暇さえあれば射撃場とボクシング・ジムと中国系フランス人がコーチする|拳《けん》|法《ぽう》の道場、それにアラブのナイフ使いのジムにかよって腕を|磨《みが》いていた。  だから、日本人の旅行客五、六人を夜のパリに案内していたとき、パン助宿でジゴロと争った客を助けようとして、ナイフを抜いて襲いかかってきたジゴロを手刀の一撃で殴り殺してしまったのだ。  フランスの警察に逮捕された新城は、フランス領ギアナの鉱山で二十年の強制労働に服するか、それともコルシカ島で対ゲリラ要員として働くか……の選択を迫られた。  新城は後者を|択《えら》んだ。  フランス領コルシカ島は、ナポレオンの生地として名高いが、地理的にはフランスから遠くイタリーに近い。  かつてはイタリー領であったその島は、ブドウ酒とオリーヴがとれるが、ほとんどが山地で牧畜で生計をたてている者が多い。  住民たちの生活は苦しく、離島しない者の多くも、フランス政府を憎むようになっている。  したがって、ゲリラ活動は激しかった。役所や軍隊に攻撃を掛けたゲリラは山のなかに逃げこんでは、次には思いがけぬ場所に出てきてゲリラ活動をくり返すのだ。  そのゲリラ団体は、イタリー復帰同盟という名であった。軍隊の前では何食わぬ顔をしている農民や牧夫が、夜になると、隠してあった武器を掘り出してきてヴェトコンのように戦う。  それにコルシカには昔からベンデッタといって、肉親が殺されたら、あくまでも|仇敵《かたき》をつけ|狙《ねら》うというシキタリがある。あまりに貧しいから、命がけで誰かを憎んでいないことには、生きる|甲《か》|斐《い》がないのかも知れない。  そうでなくても、貧しいのに誇りばかり高くて、|侮辱《ぶじょく》されたと感じるとすぐにナイフを振りまわす土地柄だ。いや、貧しすぎて、誇りという支えがないことには生きていけないのかも知れない。  新城が編入させられた秘密憲兵隊は、一九六二年にアルジェリアが独立をかち取ると共に表向きは解体された外人部隊に替わるものであった。  ちがうところは、|隠《おん》|密《みつ》行動をとることと、フランス人でも入隊できることだ。五年のあいだ任務に忠実であったら、隊員が入隊前に犯した法律上の罪は特赦され、除隊の自由も与えられる。  アフリカにあるフランス領ソマリで半年の特殊訓練を受けた新城は、コルシカの首都アジャクシオ郊外の日本製バイク屋の小さな店を表看板に持ち、仲間たちと連絡をとりながら対ゲリラ活動に従事した。  ゲリラをひそかに殺すとき、新城は激しい胸の痛みを感じたが、それもはじめのうちだけであった。同情していたら、こっちが|殺《や》られるのだ。  あるときは、|拷《ごう》|問《もん》をうけて新城の|身《み》|許《もと》をしゃべりそうになった同僚の言葉を盗聴器で聞いて、千メーターの遠距離からライフルで|狙《そ》|撃《げき》して口を封じたこともあるし、山に逃げたゲリラを深追いして、マキと呼ばれる低木地帯でゲリラ十数名の|待伏せ《アンブッシュ》に会って腰が抜ける思いをしたこともある。  そして新城は三年前、とうとうゲリラたちに正体を知られて店を取りまかれた。自動銃の銃身が熱で曲がるほど射ちまくって防戦したが、放りこまれた|手榴弾《しゅりゅうだん》の破片を幾つも頭に受けて意識が遠のいていった。  正規軍が|援《たす》けにきてくれなかったら、新城は捕えられてなぶり殺しにされていたことであろう。  パリの病院に空輸された新城は大手術を受けて命をとりとめたが、脳にくいこんだ手榴弾の破片のうちの一つは、それをとりだす手術を行なえば脳自体が目茶苦茶になってしまう|怖《おそ》れがあるので、脳内に残されたままになった。  ゲリラに正体を知られた新城はもうコルシカに戻っても政府のための役にたたない。それに、重傷を負った身であるし……ということで、二か月後に退院すると共に、まだ五年の満期が終了するまでに一年近くあったが、除隊を許された。  フランスの永住権も与えられた新城は、しばらくは軍から与えられた見舞金で食いつなぎ、そのあとはガイドをやって食っているのだ。  脳に残された手榴弾の破片はときどき位置を変え、そのたびに新城はベッドで転げまわりながら、狂暴な発作に見舞われた。  そんなとき新城は、日本に帰り、小野徳をはじめとする、父や母や妹たちを死に追いこんだ連中をなぶり殺しにする夢を見た。  だが夢はまだ実現していない。今の気楽な生活を捨てて、再び暴力のジャングルに戻っていく決心がなかなかつかないのだ。  小野徳が先の衆議院選で二億円を越す金をバラまき、また銀城会に有権者を|脅迫《きょうはく》させて、直接親分の水木さえも押え、千葉某区でトップで当選したということは、風の便りに新城は聞いた。  選挙が終わってみると、小野徳派の選挙違反は|厖《ぼう》|大《だい》なものであったという。全国第三位という違反のなかでも、県全体の逮捕者三十五人中の十四人、任意取調べ六百二十二人中の二百三十人が小野徳派であり、一票五千円で小野徳は票を買ったことも判明した。  だが、地元民も怪しむほど、調べは途中で打切られた。  沖—富田派につながっている小野徳のことであるから現在の権力機構社会では不思議なことではない。千葉のケネディと自称する小野徳は、警察の存在などまったく無視し、無法地帯のようななかを肩で風を切って|闊《かっ》|歩《ぽ》しているのだ。今は、ぬけぬけと、千葉県公害対策特別委員長を兼職している。  だが、それには、千葉でも|銚子《ちょうし》地方を選挙地盤とし、現在は保守党副総裁を勤め、やはり富田や東北出身の水木幹事長と同様次期保守党総裁、すなわち首相の|椅《い》|子《す》を|狙《ねら》っている|藪《やぶ》|川《かわ》と、沖—富田派とのパワー・バランスを保つための取引きが小野徳に有利に働いた、ということも言えるらしい。  新城の実家が海を奪われた頃の県警本部長は藪川の子分の山部元次郎であった。  藪川はその頃山部を副知事にしようと強押しに働きかけていた。だが当時の羽山知事は現在の知事の吉野がすでに副知事でいるので、二人の副知事は必要ない、と断わった。  さらに羽山は埋立て権について藪川と|揉《も》めた。羽山は農漁業と工業の共存を主張していた。京葉工業地帯の実現に夢中になっていたのは副知事の吉野のほうであった。  三十七年十月、すなわち新城の家に悲劇が起こった翌年、藪川は羽山の四選阻止運動の|音《おん》|頭《ど》取りをした。  羽山四選に一番反対しているのは財界であって、工業用水や産業道路、鉄道や港湾などの整備行政の遅れで進出会社は困りきっている……というのが理由であった。候補者として藪川は財界代表である日本商工会議所国際委員長の狩野を立てた。      3  藪川派は県下の建築業者や建材業者を集め、狩野が当選すればいかに荒稼ぎが出来るかを説いた。  沖—富田派は、狩野が藪川派であることにこだわったが、いずれにしても狩野が当選すれば京葉工業地帯の建設は急ピッチで進むことには違いないからと、藪川と歩調を合わせた。  当然ながら羽山の四選は阻止され、狩野が知事の|椅《い》|子《す》についた。そして、やはり当然ながら、県警本部長であった山部は副知事についた。千葉には吉野、山部という二人の副知事が生まれたわけだ。  暴力団双葉会を抱えている藪川は、地元の|銚子《ちょうし》港の整備に国庫から六十億を出させることを党内で決めさせた。  それは、京葉工業地帯に対抗し、その三倍の規模と天文学的な金を食う、|九十九里浜《くじゅうくりはま》工業地帯を実現させることによって、|莫《ばく》|大《だい》な金と首相の椅子をもぎ取るための藪川の布石であった。九十九里は|鹿《か》|島《しま》、銚子とつながり、そこも藪川の地盤だ。  そのためには、行く行くは山部を県知事にすることが必要だ。  藪川の真の|狙《ねら》いが露骨になるにしたがって、沖—富田派はあわてた。京葉工業地帯の完成をいそぐ沖‐富田‐三矢派の吉野と、九十九里浜工業地帯を優先させようとする藪川派の副知事山部は、ことごとにいがみあった。苦りきった沖—富田派は、山部が県警本部長時代から、東京を本拠とする大東会と深いつながりがあり、バクチや密輸を見逃す代償として、|妾《めかけ》や|妾宅《しょうたく》の世話までしてもらっていることを|嗅《か》ぎつけた。双葉会にも大いに手心を加えていたことも分かった。  その頃、参議院の選挙が近づいてきた。  そして新知事の狩野は“急死”した。  藪川と沖は高度の政治的交渉を持った。山部は参議院に転じ、吉野が次の知事に当選するように段取りが講じられた。  つまり、藪川派がどんなに派手な選挙違反をやろうが、沖—富田派はそれを問題にするような野暮なことはしない、というわけだ。  山部は参議院議員となった。元県警本部長に|楯《たて》つくような県警幹部はいないようであった。そして、吉野のほうも新知事に当選した。  京葉工業地帯はいま、東洋一の|君《きみ》|津《つ》製鉄所を持つ九州製鉄、千葉工場の増設計画が完了したら世界最大のアルミ工場を持つ第二|水《みな》|俣《また》病の元凶の明和電工、東電、世界最大のガス発電所建設を計画中の東京ガスをはじめとし、水俣病の元凶の|窒《ちっ》|素《そ》石油化工や公害発生大企業数十社と、その下請け数千社がひしめいている……。  アムステルダムは、ちょうどニシンの季節であった。運河沿いの街角では、大柄なオランダ娘が屋台の前で自転車を|停《と》め、ニシンの塩漬けにタマネギを刻んだ薬味をつけ、口を大きくエロティックに開いて|立《たち》|喰《ぐ》いしている。  一度裏通りに車を|停《と》めた新城は、ディッカー&ティースに歩いた。案内した流行作家からもらった千ドルで|懐《ふところ》は温かい。  すでに予約してあったので、新城は丁重に奥の席に案内された。ニシンのカクテルのオードゥブルと、アブサン系のペルノーの水割りのミルクのように白濁した液体のアペリチーフを、ゆっくりと時間を掛けて飲む。  酒をオランダ・ジンに切替え、|鴨《かも》とアンズのキューラソー煮からはじまるメイン・コースを食いはじめた。  そのとき、野卑な高笑いと共に、二人の日本人の男と、二人のオランダの女が入ってきた。女たちは、一見して中級のパン助と分かった。  一行は、ほかの客たちが顔をしかめるなかを、新城の横のテーブルについた。  その二人の男の顔を見たとき、暗い怒りの表情が|剥《む》きだしになろうとするのを必死で押えた。  二人とも、沖元首相の側近のグループだ。  |痩《や》せて貧相なのが沖の筆頭秘書の田中、中国人じみた大柄なほうが、沖のトンネル会社五光開発の社長であり、一年ほど前に女優松平淳子と再婚した岸村四郎だ。  田中と岸村、それにアムステルダム日本商工会館館長川上、それにあと二人の沖の元秘書は田中グループと呼ばれている。  彼等は沖元首相や義弟の江藤首相を生んだ山口の中学の同級生だ。戦争下の中学時代に将来の立身出世の夢を語りあった彼等であったが、今ではそれぞれが夢の実現を着々と進めている。  沖の筆頭秘書の田中は、沖の財布のヒモを握っており、安保再改定の|嵐《あらし》が鎮まったら沖の地盤を引きついで衆院選に立候補することになっている。現在は、プロ野球ロッキー・ガムズのオーナー代理であり、沖への財界からの|賄《わい》|賂《ろ》をピンはねして貯えた金だけでも十億は軽く越している。  いま、ここにはいない元秘書の|鳥《とり》|飼《かい》は、富田大蔵大臣の|茨城《いばらき》の地盤をお|裾《すそ》|分《わ》けしてもらって、代議士になっている。やはりここにいない|阿《あ》|波《わ》は、山口出身の代議士であった父の地盤を継いで、これも代議士になっている。  そして岸村四郎だ。  岸村はかつて九州製鉄の庶務課の用地係長をしていた男だ。新城の父たちが|君《きみ》|津《つ》|浜《はま》に持っていた共有地を安く買い|叩《たた》くに当たって、 「売ってくれなくとも結構。そのかわり、九鉄はあんたたちの共有地のまわりを埋めたてて、船の出し入れが出来なくするだけのことですからね」  と、鼻で笑った男だ。交渉のとき君津浜に休暇をとって帰っていた新城は、今でもあのときの岸村の顔を覚えている。  戦後まもなく岸村は郷里の山口を|出奔《しゅっぽん》し、私立大学の夜間部に入った。食うためにはバーの女や未亡人のヒモになった。  だが彼女たちも貧しかった。やっと岸村が金鉱を掘当てたと思ったのは、名古屋の資産家の一人娘という女子大生であった。  どう見ても美人とは言えなかったが、金はふんだんに持っているようであった。岸村は一緒になろうと、その娘と名古屋に行った。  確かに資産家にはちがいなかった。娘の実家は三国人のパチンコ・チェーンの経営者であった。おまけに、娘には海千山千の両親と、荒くれ者の五人の兄がいた。  岸村はパチンコ屋の店番をさせられるだけで、経理に立入ることは許されなかった。そこで岸村は二年間を我慢した。  逃げだす決心を固めた頃、岸村は近所のタバコ屋をやっている若い未亡人とねんごろになった。寝物語りにそれとなく|尋《き》いてみると、亡夫が|遺《のこ》した九州製鉄の株をかなり持っていて、生活の心配はない、ということであった。  二人は東京に向けて駈落ちした。その女が岸村の前夫人だ。彼女の知りあいが九鉄本社の常務に出世していたので、岸村は九鉄の庶務課に職を得ることが出来た。  用地係に|廻《まわ》された岸村は、水を得た魚のように、土地買収に|辣《らつ》|腕《わん》を振った。何人もの女を|騙《だま》したときのように、|嚇《おど》したりすかしたりご機嫌をうかがったりで、農民や漁民から工場用地を安く|買《かい》|叩《たた》き、新城の父たちと交渉したときには係長になっていたわけだ。  だがその後、図に乗った岸村は、街の不動産屋と組んで、九鉄の土地買収に乗じて自分の利ザヤを稼ぐことを覚えた。もともと、サラリーマン生活に入った岸村の|狙《ねら》いは、そういった甘い汁を吸うためであった。  一年後に岸村の背任はバレてクビにされた。岸村は利ザヤをひそかにためておいた金で不動産屋をはじめたが、九鉄のバックを離れた岸村は、仲間と思っていた不動産屋たちに散々にカモにされた。  女房の持っていた九鉄の株も売払って軍資金に当てたが、とうとう五年前には、ほかの不動産屋に歩合で|傭《やと》ってもらう外交員になった。  |悄然《しょうぜん》とした岸村は、恥も外聞もなく、中学時代の旧友の田中を、|赤《あか》|坂《さか》の沖事務所に訪ねていった。  田中が沖の番頭として羽振りをきかせていると|噂《うわさ》に聞いていたからだ。土地の百坪も田中に買ってもらえば、その歩合で今月は|飢《う》えることもなかろう、という気持ちであった。  ところが田中は、 「どうだ、また一旗上げる気はないか? 独立するんだ」  と、貧弱な体をソファにそっくり返らせながら言った。 「とても、とても。独立すると言ったって、先だつものが……」  岸村は弱々しく|呟《つぶや》いた。 「何を言っとる。互いに山口中学で誓った仲じゃないか。|俺《おれ》が応援してやる。と、言うことは沖先生が応援してやる、と言うことだ」 「本当か? 俺は夢を見とるんじゃないだろうか?」  岸村は自分の|頬《ほお》をつねった。 「俺は友情に|篤《あつ》い男だ。旧友のためなら、たとえ火のなか水のなか……とは俺のことさ」  田中はしきりと友情を強調し、男泣きする岸村の手を握った。  だが当然ながら、田中が岸村を応援しようと言ったのは、旧友のよしみからではない。むしろ、友情を当てにしたのは田中のほうであったほどだ。つまり、旧友のよしみから岸村は秘密を守るだろう、と見込んだのだ。  沖と一番番頭の田中は、新しい資金ルートを作る構想を持っていた。その資金ルートは、かつて沖の|仇敵《きゅうてき》であった故川本実力大臣の手口を|真《ま》|似《ね》たらしい。その構想が、岸村の出現によって、明確な形をなしてきたわけだ。      4  そうやって、五光開発が生まれることになった。  準備金は実に十億であった。その十億を沖が自分の持っている天文学的金額の隠し預金のなかから出したというのなら、沖はただのくたばりかけの|反《そ》っ|歯《ば》の|爺《じじ》いだ。  だが沖も田中も権力を利用することにかけては天才であった。  その十億は関西に地盤を持つ陽光銀行から無担保で融資された。陽光銀行はその直前、不正融資が表面化して、某地検特捜部の|峻烈《しゅんれつ》な取調べを受けていた。  沖と田中はその不正融資問題を|揉《も》み消した。地検の幹部たちは続々と栄転した。田中はその一件をテコにして、五光開発のために、十億の金を引きだしたのだ。しかも、前に書いたように無担保でだ。  五光開発が最初に手がけたのは、富士五湖周辺の別荘地の分譲や土地投資であった。  投資した土地は、分譲中の別荘地に取りまかれた土地で国民休暇村が作られた。公共投資の対象になったわけだ。国や県が言い値で買ってくれ、まわりの別荘地は見る間に値上りを続けた。  つまり田中は、国や県の大施設——団地、ニュー・タウン、高速道路、官庁や大学など——が建設される予定地に集中的に投資する不動産会社を作ったのだ。  沖ほどの実力者になると、国や県の計画の青写真は、大ていのことは分かっている。その立場を利用すれば、|濡《ぬ》れ手にアワの荒稼ぎが保証されていることは当然であろう。事実、五光開発は半年もかからずに十億の借金を返している。  ロボットである岸村を使って沖はさらに私財を増やしていった。何百億という私財を棺に入れて地獄に持っていけるわけもないのに、六〇年安保のときの最高責任者として民の怒りに触れて小便を|漏《も》らしながら震えた体験から、ありあまる権力と金を常に握っていなければ不安でたまらないらしい。  五光開発で稼いだのは、沖だけではなかった。田中の|懐《ふところ》にもたんまり入ったし、ロボットの岸村もたっぷり|潤《うるお》った。  大金を握った岸村は、妻に五光開発の株の半分と二億を与え、女優の松平淳子と結婚した。だから先妻は五光開発の重役として、田中グループの女房たちと今も交際を続けており、互いの宝石や|衣裳《いしょう》を自慢しあって、虚栄と|嫉《しっ》|妬《と》のタマを投げあっている……。  日本商工会館のクラブですでに飲んできたらしく、田中も岸村もすでにかなり酔っていた。女たちに酒と料理の注文を任せると、給仕たちに千円に当たる十ギルダー札をばらまき、日本語で|傍若無人《ぼうじゃくぶじん》にしゃべりちらした。  この二人の男からはたっぷり絞り取れると計算したらしい二人の女は、シャンペーンを田中たちにすすめ、片言の英語で必死にご機嫌を取り結んだ。女は二人とも若造りにしているが、二十五歳を過ぎている。 「つまらん。せっかく|唸《うな》るほどドルを持っていても、いい女がいないんではな」  シャンペーンをガブ飲みしながら田中がぼやいた。 「まったくだ。飾り窓の女にも|飽《あ》きたし、ここにいる女にいくら尺八を吹かれても立ちはしねえよ」  岸村が答えた。 「昨日拾った黒は気に入ったようじゃないか?」 「|凄《すご》い腰の使いかただった。だけどな、酔いが|醒《さ》めてから臭くて臭くて、三べんもシャワーを浴びたんだ。何かこうスリルがあって品がいいところは無いかな」 「お前も好きだな。だけど、パリにいる奥さんに浮気されても知らんぞ」  田中がニヤニヤ笑いながら言った。  新城はフォークとナイフを使いながら、田中と岸村の会話にさり気なく|聴《き》き耳をたてていた。岸村は新城のことなど全然覚えていないようだ。 「浮気するんなら勝手にすればいい。あの女は|俺《おれ》のアクセサリーだ。もっとも、あの女、パリで夢中になって絵を買いこんだり、ディオールの店で服を仕立てさせたりして、男どころじゃないだろうさ」 「|明後日《あさって》はこっちでの仕事が片付く。パリに行って奥さんに会ったら、俺は|口《く》|説《ど》くぞ? いいだろう?」  田中は言った。 「どうぞ、どうぞ。だけど、うまくいくかどうかは大いに疑問だぜ。何しろあの女はフランスかぶれだからな。メイド・イン・ジャパンのお前がどう迫っても、相手にしてくれるかどうかな」  岸村は唇を|歪《ゆが》めた。 「参ったな。ところで、|真《ま》|面《じ》|目《め》な話、奥さんはパリの野郎どもと浮気しとるのは本当らしいぜ」 「あの女、あそこがバカバカなんだ。女泣かせの俺の持物でも、大海に何とかだ。ところがあの女、ダッコされながら耳にフランス語を吹きこまれると、キュッと締まると自分でも言ってるし、本当にそうなんだよ。俺は結婚したてのときは、無理してテープで覚えたフランス語の殺し文句をあの女の耳に吹きこんで確かめた。だけど、今は馬鹿らしくて……」 「ご苦労さん。お前がフランス語だなんておかしいがな。俺はジャパン語しかしゃべれないから、奥さんは|諦《あきら》めた。……ああ、どっか面白いとこは無いかな。川上の|奴《やつ》、自分だけベルギーの王室のパーティに招かれて、俺たちにこの品がねえ女たちを押しつけて、いそいそと出かけやがって。俺たち二人にも招待状をよこすように運動してくれたらいいのに、けしからん奴だ。ああ、やりてえ。貴族の女とやりてえよ」  田中は|吠《ほ》えた。 「俺もだ。澄ましてやがる|毛《け》|唐《とう》の貴婦人とかをヒーヒー泣かせてみたい」  岸村はわめいた。  それを聞いたとき、新城はひっそりと薄笑いを浮かべた。埋れ火のようにくすぶり続けていた|復讐《ふくしゅう》の|火《ひ》|種《だね》が、いよいよ炎をあげる時が近づいたのだ。  新城は立上った。岸村たちのテーブルに近づき、 「失礼します。もし、お許しがあれば、ご同席させていただく光栄にあずかりたいと存じますが」  と、|優《ゆう》|雅《が》に一礼する。 「びっくりさせるなよ。あんた日本人か?」  田中が目をこすりながら言った。 「さようでございます。私は旅のおかたの|無聊《ぶりょう》をなぐさめる場所や女性を色々と紹介させていただくのを|世《よ》|過《す》ぎの道としている者です」 「気取るなよ。じゃあ、ポン引きというわけか?」  岸村は言った。 「これはお口が悪い。夜のガイドと呼んでくださいませんか」  煮えくり返る暗い怒りをまったく顔に出さずに新城は|爽《さわ》やかな笑いを絶やさなかった。 「まあ、|坐《すわ》れよ。じゃあ、どっか気がきいた所を知っているのか?」 「盗み聞きする気は無いのですが、お二人ともあまり豪快なお声でお話しなさるので、つい聞こえてしまいました。貴婦人がご所望のようですが、私がご希望をかなえて差しあげましょう。|勿《もち》|論《ろん》、それなりの出費は覚悟していただきますが」  新城は空いている|椅《い》|子《す》を引寄せて腰を降ろした。  田中は、内ポケットをさぐると、ハガキほどもの大きさの名刺を差しだした。沖の第一秘書やロッキー・ガムズ代理オーナーはじめ、三十幾つもの肩書が刷りこまれている。 「おそれ入りました。私は荒木という者です」  新城は|偽《ぎ》|名《めい》を名乗った。 「俺は読んだら分かる通り、沖先生の女房役だ。俺を|騙《だま》したりしたら、お前を強制送還してブタ箱に放りこむからな」 「ご冗談を……私が良心的にビジネスを続けていることは、この店のオヤジさんに|尋《き》いて頂いても分かりますよ。ところで失礼ながら、こちらの先生は?」  新城は岸村のほうに愛想笑いを向けた。 「知らんのか、松平淳子のご亭主だ」  田中が言った。 「は? 何しろ長く日本を離れてますので……」  新城はとぼけた。 「こいつは愉快だ——」  岸村は、はじけるように笑い、 「気に入った。スターの淳子の名も知らんのなら、よっぽどこっちに長くいるんだろう?」  と、尋ねた。 「このアムステルダムだけでなく、ヨーロッパじゅうの|華《はな》やかな|市《まち》の夜のことなら、この私にお任せください。今夜、私が案内いたします所も、きっとお二人のお気に召すと思いますよ」  新城は言った。 「この女たちはどうしよう?」  田中が声をひそめた。 「帰らせます。一人いくらでお相手代を決められたんですか?」 「百ギルダーやってくれ、と言われたんだが、イロをつけて百五十払う。一発もやらずに、こいつらはタダ|儲《もう》けだ。この女たちを連れていくわけにはいかんかね?」 「駄目ですよ、格がちがいすぎます」  新城は再び立上った。二人の女のあいだに回りこんで、両手を二人の肩に乗せ、 「この|旦《だん》|那《な》たちは、これから俺の女の客になる。俺が交渉して、二人とも百五十に増やしてやった。金をもらったら、大人しく消えるんだぜ」  と、達者なオランダのヤクザ言葉で|囁《ささや》いた。 「あんたにいくらバックしたらいいの?」 「俺はいいんだ。あとで旦那がたから別にもらうからな」  新城は答えた。  二人の女は、それぞれの相手にキスの雨を降らせた。男たちは、新城に言われて、それぞれの女に金を渡した。女たちは去った。 「ところで、お前が知っているところに行くには、いくらかかるんだ?」 「お一人千ギルダー。そのかわり、絶対に失望させませんよ」 「十万円は高い」 「行ってみて、高いと思われたら、一文も払わないで結構です。私が負担しますから。私はこの商売に生きているプロとしての|面《めん》|目《もく》にかけてお話しをしているんです」 「分かった」 「じゃあ」  新城は電話のブースのほうに歩いた。 「おい、待て、どこに行く?」  と、岸村はわめく。 「ガツガツなさらないでください。パーティが開かれる|館《やかた》に、これから行くことを知らせるだけですよ」  と、苦笑してみせる。もう二度とこの店には来ることが出来ないだろうと思うと、少しながらさびしかった。     |復讐《ふくしゅう》の第一歩      1  二十分後、新城が運転するプジョー四〇四は、後部座席に、元首相沖の筆頭秘書である田中と、沖の資金源の一つである五光開発社長岸村を乗せ、アムステルダムを郊外に向けて走っていた。  周知のように、オランダは低地だ。海より低いところが多い。さまざまの花の温室畑の間を縫う、アスファルト道路を疾走するプジョーの中で、田中と岸村は町の中で一度新城に車を|停《と》めさせて買っておいた、ボルスのオランダ・ジンをラッパ飲みしている。  したがって、二人ともかなり|酩《めい》|酊《てい》していた。 「おい、ポン引き、これから行く秘密クラブというのは、どれくらい時間がかかるんだ?」  岸村がわめいた。 「それほどには」  新城は煮えくり返る怒りを顔にまったくあらわさずに、微笑とともに答えた。 「ほんとに貴族の女なんだろうな。うそつきやがったら、ただじゃすまんぞ」  貧弱な体格の田中が、運転する新城の肩を小突く。 「信用してくださいよ。それとも、あなたたちはどうしても私を信用できないとおっしゃるので……」  新城の声にはじめて|凄《すご》みが加わった。 「わかった、わかった。さあ、もっとスピードを出せ」  田中が言った。  やがてゾイデル海を|堰《せ》きとめてつくられた広大なアイセル湖が右手に見えてきた。風車も見える。絵ハガキ的な風景だ。オランダ・ジンをラッパ飲みしていた岸村は、 「がっぽり金をもうけて、天下の美女を抱くのが、おれの夢だったんだ。金はできた。天下の美女も手に入れた。淳子だ。前の女房と別れるとき、おれはこの夢のことを女房に正直に打ち明けて、“淳子と一緒にさせてくれ、おれを男にさせてくれ”と土下座した。おれは金も淳子も手に入れた。だけど一緒になってみると、淳子はたいしたものじゃなかった。あれは貴族じゃない。おれが|憧《あこが》れていた、痛めつけがいがある、上品な女じゃない。あすこがバカバカな成り上がりもんだ」  と、ジンの|瓶《びん》を振り回しながら、|泥《でい》|酔《すい》|者《しゃ》独特の、だらしないしゃべり方で言う。 「それはそれは。しかし、うらやましいですな。私も早くこんなしがない商売から足を洗って、思いきり使えるだけの金を握ってみたいもんですよ」  新城は言った。  湖は果てしなく続いているかのようであった。月光が湖面に銀のように反射している。やがて車はフォレンダムの漁村を通り過ぎた。さらに十分ほど車を走らせると、湖に突き出した|岬《みさき》の上に建つ古城が見える。 「あの城ですよ。パーティが行なわれるのは……。フォン・ライツブルグ|伯爵《はくしゃく》夫人が主催者です。伯爵は五年ほど前になくなりましてね」  新城は説明した。 「それで何人いるんだ、女たちは、おれたちの相手をする貴婦人とやらは?」  田中が、はやりきった表情で言った。 「その前に、先生方の趣味をまだお聞かせ願ってませんでしたね。どちらなんです?」  車のスピードを|緩《ゆる》めながら、新城はたずねた。 「どっちとは何のことだ。バカにするんじゃねえや。おれにオカマ趣味はねえぜ」  岸村はどなるように言った。 「いえ、そんなつもりでは……。ただ、女性に痛めつけられて喜びを感じる方と、女性を痛めつけて快感をおぼえる方と、両方ありますからね」 「何だ、そういうことか。俺は痛めつけるほうが好きだ」  岸村は言った。 「おれはスタンダードだ」  田中が言う。 「そうですか。今夜は五人いるそうです。もちろん伯爵夫人を除いてですがね、みんな貴族の娘たちです。お二人でその五人を自由にしてください——」  新城は答えた。車を|停《と》め、 「ところで、料金をいただいておきたいんですが……」  と言う。 「わかった」  田中はズボンのベルトを緩めて、腹巻きから分厚い財布を取り出す。少なくともその中には二十万ギルダーが入っているだろう。 「立て替えておくぜ——」  と、岸村に言い、二千ギルダー新城に払って、 「おまえの手数料は」  とたずねる。 「三百ギルダーで結構でございますよ」  新城は答えた。 「伯爵夫人とやらからはたっぷりリベートをもらえるんだろう」  と言いながらも、田中は百ギルダー札を三枚新城に渡した。  再びプジョーを発車させた新城は、|岬《みさき》の付け根に向けて近づける。やがて|鉄《てっ》|柵《さく》と金網が張られ、番小屋がついた門のところに突き当たった。そこには“私有地につき立入禁止”とオランダ語で書かれてある。門の前で一度車をとめた新城は軽くクラクションを鳴らした。  番小屋から水平二連のよく使い込んだ散弾銃を肩に|吊《つ》った|逞《たくま》しい男があらわれ、鉄柵の門からのぞく。  車から降りた新城は、 「私だ。お客さまをご案内してきた」  と、声をかける。 「お待ちしてましたよ」  門番は門を開いた。  その男に五十ギルダーのチップをやった新城は再び車に戻り、プジョーを門の中に突っ込ませる。屋敷の庭は原始林になっていた。少なくとも十万坪はあるであろう。|岬《みさき》全体が庭なのだ。|鬱《うっ》|蒼《そう》と茂った原始林の中でうねりくねっている車道を、新城はゆっくりと車を走らせる。  十八世紀のものらしい城の前の広場で車がとまると、十頭をこえるマスチフとドーベルマンの猛犬がどこからともなく走り寄ってきた。|唸《うな》りながら車のまわりを回る。 「おい、どうにかしてくれ」  岸村は顔色を変えた。そのとき、城の門が開き、乗馬服姿の女が|鞭《むち》を手にして、姿をあらわした。  年は五十を越えているだろう。しかし|凄《せい》|絶《ぜつ》なほどの美しさがある。髪は燃えるような赤毛だ。ぴったりとした乗馬服に包まれたからだには、|贅《ぜい》|肉《にく》のかけらもうかがえない。フォン・ライツブルグ伯爵夫人ミランダだ。  夫人はうしろからの|灯《あかり》を受けて、|昂《こう》|然《ぜん》と立ち、鋭く|鞭《むち》を鳴らした。オランダ語で、 「散りなさい」  と、犬の群れに命令する。  猛犬たちは|尻尾《しっぽ》を巻いて、甘えた鼻声とともに、森の中に散っていく。エンジンを切った新城は車から降りた。  そのとき、夫人のうしろから|燕《えん》|尾《び》|服《ふく》をつけた執事風の老人が姿をあらわした。小腰をかがめて車に近寄ると、 「よくいらっしゃいました」  と、うしろのドアをあける。白髪に|艶《つや》があった。  田中と岸村は車から降りた。執事と新城に案内されて、城の扉に近づく。新城は伯爵夫人の前で立ちどまると、その手をとって、優雅に唇を当てた。 「あの二人は日本の実業家です。今夜もよろしく」  とオランダ語で言う。  微笑を浮かべた伯爵夫人は、田中たちにも右手を差し出した。ハンド・キスに慣れてない二人は、彼女の手の甲にべったりと唇をつけた。  当然のことながら、城の中も広かった。三十坪もある控え室に、岸村と田中を待たせておき、新城は別室で伯爵夫人に、二人の料金を渡した。 「あの殿方はどういうご趣味なの」  伯爵夫人ミランダは|嫣《えん》|然《ぜん》と笑いながら尋ねた。|小《こ》|皺《じわ》もほとんど目立たない。高貴な雰囲気を充分に身につけている。 「なにしろあの二人はヤボなエコノミック・アニマルですからね。アルコールとマリファナで|朦《もう》|朧《ろう》とさせてやれば満足するでしょう。もっともあの二人は高貴な女に|憧《あこが》れているから、はじめは上品に振舞えと言っといてください」  新城は言った。 「わかったわ」 「じゃあ、よろしく……。もっとも大きいほう——岸村という名前なんだが——は、サディストの気もあるらしいですがね」 「じゃあ、その|方《かた》にはマリーを回すわ。あの二人の方が夢中になり始めたら、あなた、またこんなオバアチャンでもお相手してくれる?」  伯爵夫人ミランダは新城の|逞《たくま》しいからだに身を寄せた。  返事のかわりに、新城はミランダの唇を吸う。年を感じさせぬほど、ミランダの体は熱かった。      2  新城と執事のマンデンは、田中と岸村をシャンデリアが輝く|豪《ごう》|奢《しゃ》なサロンに連れていった。  そこでは暖炉が燃えていた。|絨緞《じゅうたん》は|踝《くるぶし》が埋まるほど厚い。要所要所に|寝椅子《デイヴァン》や、ソファが置かれたそのサロンには、すでに酒の用意が整えられている。肉や魚もたっぷり用意されていた。 「おい、ここの女たちに日本語は通じないのか」  岸村が興奮でかすれた声で尋ねた。 「ご|冗談《じょうだん》を。日本語が通じるほど一般ずれしているところに、連れてくるわけがありませんでしょう。ご心配なく。私が通訳しますから」  新城は軽く一礼した。  そのとき、乗馬服姿の伯爵夫人ミランダに連れられて、五人の娘が入ってきた。みんな若いだけでなく、どんな高級コールガールにも見られない気品がある。イヴニング・ドレス姿だ。 「来たか来たか、なるほど、これなら十万円の元がとれそうだな」  岸村は|相《そう》|好《ごう》をくずした顔つきで言った。 「こちらの日本の紳士は、君たちのように美しい娘たちを見たことがないと言ってらっしゃる」  新城はオランダ語で、|適《てき》|当《とう》に、娘たちに向かって言った。 「紹介するわ——」  伯爵夫人は、娘たちを二人の男に引き合わせた。執事は別室に消えている。  プラチナ・ブロンドと、灰色の|瞳《ひとみ》を持つ、北欧系の娘がオルガだ。|憂《うれ》いを含んだ|美《び》|貌《ぼう》だ。  |蜜《みつ》のようなハニー・ブロンドの髪と、湖のようなブルーの瞳の娘がアンネだ。イヴニングの胸もとから乳房がはみ出しそうだ。  伯爵夫人に劣らぬほどに燃え立つように赤い髪のグラマーがマリーだ。ダークブルーの瞳が暗い。  栗色の髪とアンバー色の瞳を持つ、背の高い娘がエリザベートだ。ボーイッシュなからだつきをしている。  そして、黒く長い髪と、エメラルド・グリーンの瞳を持った娘がシュザンナだった。髪が黒いのに、|眉《まゆ》|毛《げ》が金色という、珍しい特徴を持っている。  紹介された娘たちは、ドレスのすそを両手で軽くつまみ、バレリーナのように優雅に一礼した。伯爵夫人の|口上《こうじょう》を適当に通訳した新城は、 「マリーはマゾですよ。気分が乗ってきたら、思いきり痛めつけてやってください」  と、岸村の耳にささやく。  田中も、岸村も、濁った|瞳《ひとみ》をぎらぎらと|脂《あぶら》っこく光らせていた。 「ほんとに貴族の娘なのか?」  岸村は言った。 「ほんとにあなたは疑い深い方ですね」  新城は苦笑いしてみせた。  ほんとうに娘たちは貴族の子女なのだ。ただ彼女たちは見せかけに似合わず、ニンフォマニアックなのだ。  銀のバケツで冷やされたシャンペーンが抜かれた。シャンデリアの灯が消される。暖炉の桃色の|焔《ほのお》と、大きなロウソクの炎が、あやしげな雰囲気をつくり出す。娘たちは、緊張している田中と岸村を、大きな|寝《ね》|椅《い》|子《す》に腰を下ろさせた。その左右に|坐《すわ》ったり、間に入ったり、前の|絨緞《じゅうたん》に坐ったりする。  乾杯が行なわれた。新城も伯爵夫人とグラスを合わせる。 「おい、通訳、こっちに来て何かこの娘たちにうまいことを言ってくれ」  田中が叫んだ。  乾杯が終わると、娘たちは、田中や岸村に、口当りはいいが、強い酒を勧め、タバコを差し出す。  そのタバコは、葉が緑色を帯びていた。いうまでもなく、マリファナだ。娘たちも吸う。  通訳としての新城は、男たちと娘たちの言っていることを、それぞれ大げさな|褒《ほ》め言葉に替えて伝える。  やがて、田中と岸村は、アルコールに加わって、マリファナが猛烈に回ってきたらしい。獣のような|吠《ほ》え声を立てると、ソファから立上り、ズボンを下ろす。  娘たちは笑いながら、彼らから逃げるジェスチュアをした。二人の男は、服を引きむしるようにして、素っ裸になる。二人ともそびえ立たせていた。  田中のものはスタンダードというより、少々小さいが、岸村のものは自慢するだけあって、かなりの|逸《いち》|物《もつ》だ。  二人は娘たちを追っかけ始めた。まず岸村がマリーをつかまえる。イヴニング・ドレスを力まかせに引き裂いた。  悲鳴を上げながらも、マゾヒストのマリーはうれしそうであった。岸村はそのマリーを引き倒し、むしゃぶりついていく。  一方、田中のほうは、自分よりも三十センチは背が高いオルガにむしゃぶりついた。胸の谷間に顔を埋める。立ったままでは下のものは届かない。  マリーに強引に押し入ろうとしている岸村に、伯爵夫人ミランダは|鞭《むち》を渡した。一瞬けげんな顔になった岸村も、すぐにその意味がわかったらしい。 「なるほど、好きなようにしていいというわけだな」  と笑うと、マリーから体を離し、鞭を振り上げる。  マリーは、 「ぶたないで」  と、哀願しながらも、期待に身を震わせている。  岸村は狂ったようにマリーを鞭打ち始めた。それを横目で見ながら、オルガに足払いをかけて倒した田中は、銀色がかった金髪の繁みに飾られた|蜜《みつ》|壺《つぼ》に口を寄せる。  ほかの三人の娘は、みずからヌードになった。オルガにまつわりついている田中を、横や、背後から刺激する。  一方、マリーのほうは皮膚が切れて、血がにじんでいた。それでもおびただしく蜜をしたたらせる。我慢できなくなった岸村は、そのマリーに突入する。  パーティは|蜿《えん》|蜒《えん》と続いた。田中と岸村、それに娘たちは、マリファナのせいで、もうほとんど正常な意識を失ったまま、動物的にうごめいている。  新城は、乗馬服のズボンを下げたミランダを背後から満足させてやった。  夜明け近く、完全に意識を失った岸村の|脾《ひ》|臓《ぞう》に、新城は、女たちの目を盗んで、|拳《けん》|法《ぽう》の突きを食らわせた。憎悪のありったけを込めた一撃であった。  打撃を食らった本人は、目が覚めても苦痛は感じないが、一週間後に必ず|頓《とん》|死《し》するという、おそろしい一撃であった。  新城は、田中にもその一撃を食らわす。岸村のときと違って、半月後に効き目があらわれて死ぬようになる。娘たちもマリファナに完全に酔って、|絨緞《じゅうたん》の上で眠りこけていた。      3  新城は田中の財布から二千ギルダーを抜いた。疲れ果てて、寝室で眠っている伯爵夫人のところに行く。 「どうしたの?」  レースの垂れ幕がついたベッドで眠っていたミランダは、もの憂げに上半身を起こした。乳房はまだ娘のもののようだ。 「あの二人はあと一日遊びたいと言っています。これでよろしく」  と、二千ギルダーをミランダの|枕《まくら》の下に差し込む。 「わかったわ。あなたもおやすみになったら、ここで?」  伯爵夫人は|媚笑《びしょう》した。 「ありがとう。でも、私がいないと、客が不安がるでしょうから」  新城は優雅に一礼し、サロンに戻った。意識がない田中の髪をつかみ、乱暴に揺する。  やがて田中は目を開いたが、その焦点は定まらず、夢遊病者のようだ。 「貴様は沖の女房役だと言ったが……」  新城は尋ねた。 「そうだ。眠い。眠らせてくれ」  田中はろれつが回らぬ声で言った。いま何をされたところで、あとで思い出しはしない|筈《はず》だ。 「沖は、アムステルダムの日本商工会館を通じて、どのくらいの|金《かね》をヨーロッパにプールしてるんだ?」 「一千億円だ。ざっと」 「じゃあ、日本にはどれくらい|蓄《たくわ》え込んでいる?」 「三千億円。|放《ほ》っといてくれ。眠い」 「ヨーロッパにプールしている金はどこに預けてある?」 「知らん。それは川上の領分だ。館長の川上と沖先生は知っているが……」 「うそをつくな」 「ほんとなんだ。日本国内に隠してある沖先生の金のことなら、|俺《おれ》は知っている。だけど、ヨーロッパの沖先生の金は、スウィスの銀行に信託されたり、いろんな会社に投資されていることは分かっていても、それがどこなんだかは、はっきりとは教えられていない。川上は知っているが……。川上はそのために存在してるんだ」 「アムステルダム日本商工会館は、沖の資金ルートの海外拠点の役割を果たしているという|噂《うわさ》は、やっぱりほんとだったんだな」 「そうだ。沖先生だけのじゃない。沖先生と富田先生の資金ルートだ。もちろん川上にも充分な報酬が払われている」 「じゃ、さっき言った金額は、沖だけじゃなく、富田のも含まれているのか?」 「そういうことだ。ほぼ半々だ。貴様は誰だ? 早く眠らせてくれ」  夢遊病者のように|朦《もう》|朧《ろう》としている田中は、目の前の男が新城であることさえもわからないようであった。 「もう少ししたら、貴様はゆっくり眠れる。ゆっくりとな。じゃあ、川上について教えてくれ。|奴《やつ》に関することなら何でもいい」  新城は言った。  聞きとりにくい声で、田中はしゃべった。新城は、川上の自宅から情婦の家の番地まで聞き出す。  そして、 「岸村はいま何をしてるんだ。そのけだもの野郎は?」  と、尋ねる。 「五光開発の社長だ。沖先生のトンネル会社だ。おれが世話してやったんだ。五光開発は、国や県や公団が計画している公共大施設を、沖先生が一般に発表される前に|嗅《か》ぎつけて、そこを買い占めさしておくんだ。公共事業が始まると、五光開発は買い占めてあった土地を転売して、ボロ|儲《もう》けする」  田中は言った。かなり|詳《くわ》しく、具体的に説明する。  さらに田中は、京葉工業地帯と沖—富田派のつながり、さらには|九十九里浜《くじゅうくりはま》工業地帯と藪川保守党副総裁とのつながりもしゃべった。  さらに|鹿《か》|島《しま》工業地帯と富田の深いつながりもしゃべり、それらすべてが、次期保守党総裁選挙の資金源となっていることもしゃべる。  さらには、京葉と鹿島には、三矢財閥の三矢不動産が深くからみ、九十九里浜工業地帯には、巻返しを|狙《ねら》う|安《やす》|住《ずみ》財閥の安住不動産がからんでいることもしゃべった。  新城はさらに詳しく尋こうとしたが、田中は再び意識を失った。暖炉にでも顔を突っ込んでやれば、また目を覚ますだろうが、それではヤケドのあとが残って、あとでまずいことになる。  新城は、今度は岸村のほうに移った。岸村の鼻を押える。口も押えた。息ができなくなった岸村は|苦《く》|悶《もん》した。新城は、岸村の鼻と口から手を離し、耳を左右に引っ張る。|呻《うめ》きながら岸村は目を開いたが、田中と同じように、|瞳《ひとみ》の焦点は定まらず、夢遊病者そのものだ。  新城は、その岸村の髪をつかんで、乱暴に|揺《ゆ》さぶった。 「何をするんだ。眠たい。やめてくれ」  岸村は呻いた。 「貴様はえらく出世したそうだな。貴様が九州製鉄の用地係長をしていたとき、|君《きみ》|津《つ》|浜《はま》の土地を買収したことを覚えているか」 「昔のことだ。しかし、覚えてはいる」  岸村は眠りこみそうになった。  新城は再びその岸村を激しく揺すった。 「貴様は君津浜の漁師たちが共有していた漁船や、漁具置場を、|恐喝《きょうかつ》同然にして買い上げたことを覚えているだろうな」 「ああ、あのときのことは覚えている。われながらうまくいったと思った」 「そうか。漁師の中に、新城という男がいたのをおぼえているか?」 「新城? 全然思い出さん」 「そうか。だが、新城のほうは、貴様のことを|怨《うら》みながら、死んだと思うぜ。一家心中をしたんだ。貴様や、九鉄や、小野徳を怨みながらな。一家で一人だけは生き残ったが……」 「何のことだかわからん。とにかく酔っぱらった。横にさせてくれ」 「いまにゆっくり眠れる。永遠にな——」  新城は|歪《ゆが》んだ笑いを浮かべた。そして、 「貴様の女房は女優の松平淳子だそうだな。いまパリにいるのか」  と、尋ねる。 「そうだ。女房に何の用がある」  上体をふらふらさせながら、岸村はろれつが回らぬ声で|呟《つぶや》いた。 「何でもいいから答えろ」 「|俺《おれ》は淳子のために、アパルトマンを、ワン・フロアー買ってやってある。年に、平均合計して一と月ほどしか使わないんだが、ホテル住いよりカッコいいと淳子が言うんだ」 「ワン・フロアーもか。金は幾らした?」  新城は|眉《まゆ》を軽く|吊《つ》り上げた。周知のように、パリの市内では、一戸建ての家はほとんどないといってよく、どんな金持ちでもアパート暮しだ。ただしアパートといっても、日本でいうマンションやメーゾンなどよりはるかに高級だが。 「五百万フランだった。シャンゼリゼ通りとオスマン大通りに|挟《はさ》まれたフォーブル・サントノレ通りのパトー・アパルトマンだ。その七階全部だ。パトー・アパルトマンはホテル・フィリッツに近い」 「五百万フランか。たしかに貴様は、金もできたと自慢したとおりだな。そのパリで、貴様の女房は何をやってるんだ?」 「女房はフランスかぶれだ。パリかぶれと言ったほうがいいかな。パリにさえいればゴキゲンなんだ。毎晩オペラを見たり、芝居を見たり、パーティをやったりしている」 「それで貴様はいつパリに行く」 「向うに行ったって、俺の出る幕はない。こっちの用事が、あと三、四日あればすむから、そしたら一週間ほど北欧で遊びまくってから、パリに行き、女房と落ち合って帰国するつもりだ」  岸村はのろのろと答えた。それっきり眠りこける。  新城は舌打ちし、ふんだんに残っているオランダ・ジンの一本をラッパ飲みする。肉の塊りを暖炉の|燠《おき》|火《び》であぶって平らげ、|寝《ね》|椅《い》|子《す》に横たわる。酔いが回ってくる。この場で、岸村と田中をなぶり殺しにしたい衝動に駆られたが、どうせ二人は近いうちに死ぬのだと、衝動を押し殺す。  死ぬときに、二人は楽に死ねないのだ。パリで、中国系フランス人の|拳《けん》|法《ぽう》の教師に秘伝を教わり、コルシカの対ゲリラ要員時代に、充分に実戦で|鍛《きた》えた一撃は、犠牲者が死ぬ前に、丸一日ほど発狂するほどの苦痛を与える。  いつしかぐっすり眠ったらしい。騒々しい岸村たちの声で、新城は目を覚ました。反射的に腕時計を見ると、すでに昼を過ぎている。 「失礼しました。つい寝過ごしまして……」  起上った新城はへりくだった態度で、腰にバスタオルを巻いただけの二人の男に頭を下げる。娘たちも目を覚まして、素っ裸のまま、|宴《うたげ》の残りの肉を口に入れている。  二人の男は正気に戻っているようであった。だが、マリファナに酔っているときに、新城から受けた仕打ちについては、何も覚えてないらしい。 「通訳、二千ギルダーほど金がなくなってるんだ。どうしたのか知らないか」  と、田中がわめく。 「おや、お忘れになったんですか。もう一晩パーティを続けようとおっしゃられて、二千ギルダーを追加払いなされたんですよ」  新城はまじめな顔で言った。 「ほんとか、全然おぼえてない」  田中は額を|揉《も》んだ。 「いかがです? せっかくお払いになったんですから、今夜もお楽しみになったら」  新城はにこやかに笑いながら言った。二人の男は顔を見合わせた。 「電話はどこだ。日本商工会館に連絡してから|流《いつ》|連《づけ》よう」  岸村が言った。 「それはできません。ここには電話がないんです。それに、こういう所があるということをあまり知られたくありませんし……」  新城は|揉《も》み手して見せた。 「しようがない。それじゃあ夜までの時間がもったいない。これからまたパーティだ」  田中が叫ぶように言った。バスタオルの下がみるみる突き上がってくる。 「さすがに日本男児ですね。昨夜の敢闘振りもまことに|羨《うらや》ましいかぎりでしたが……」  新城はお世辞を言った。  二日酔いを鎮めるアルコールを飲み、食い物を素手で握って|齧《かじ》りながら、二人の男は娘たちと早くも交わりを再開した。「いい気持ちだ」とか、「溶けそうだ」などとわめくことばを、オランダ語で娘たちに伝えろと、新城に命じる。  岸村と田中は、アルコールが|効《き》いてきて、二日酔いが直ったらしい。それに泥のように眠ったので、スタミナも回復していた。娘たちを並べ、ウグイスの谷渡りを行なう。新城は、娘たちにもマリファナを吸わせた。  二人の男が完全にグロッキーになって、眠りこけたのが、夜の九時ごろであった。アルコールもマリファナも充分に回っている。  新城は、その二人を、昨夜のように、無理矢理に目を開かせて、尋問した。かなりのことが聞けた。  二人が意識を取り戻したのは、朝になってからであった。今度は先に目覚めて、シャワーを浴び終えていた新城は、 「いかがです、ご満足いただけましたか?」  と微笑する。 「さすがにくたびれた。もう女を見てもゲップが出そうだ」  |頬《ほお》がこけ、目のあたりに黒い|隈《くま》ができて、ますます南方系中国人じみてきた岸村は言った。田中も同意する。  一時間後、新城は二人をアムステルダムの市内に送った。中央駅の広場で車を|停《と》めると、 「すみませんが、ここからはタクシーを拾ってください」  と言う。 「わかった。ポン引きと一緒に商工会館に帰るわけにはいかんからな」  ぐったりしている田中が言った。      4  その二人と別れた新城は、KLMの営業所で、パリ行きの飛行機の予約をしておき、空港に向かう。  空港近くのエイヴィスのレンタ・カー会社にプジョー四〇四のセダンを返した新城は、近くのレストランとカフェ・テラスで、飛行機が出るまでの時間をつぶす。  飛行機に乗ると、わずか一時間で、もうパリのオルリー空港であった。KLMやSASなどは、普通北方のル・ブールジェ空港に着くことが多いのだが、この便はオルリーに着いたのだ。  新城は、無料駐車場に突っ込んであった自分の|B・M・W《ベーエムヴェー》二八〇〇CSに乗り込む。帰国するときには、この車も持って帰り、ついでに、ガソリンタンクを隠しポケットに改造して、銃器や弾薬も運び込むつもりだ。  パリは、ローマと同じように、新城のホーム・グラウンドだ。スムーズにB・M・Wを走らせた新城は、サンジェルマン大通りとセーヌ川に挟まれた一画の古ぼけたアパートに戻る。  車は路上駐車させ、風雨に打たれて完全に変色している青銅の門を|鍵《かぎ》で開き、扉はもう一つの鍵で開いて、アパルトマンの中に入る。|管理人《コンセルジュ》のアンリが、 「お帰んなさい。だいぶ長い留守だったね」  と言う。六十過ぎの老人だ。 「ああ、留守の間にどっからか電話はなかったかい」  新城は尋ねた。むろん|流暢《りゅうちょう》なフランス語だ。 「ローマのホテルと、こっちのホテル・ヒルトンから」  と、アンリは言った。 「そうか。どうも。これで芝居でも見てきてくれ」  新城は五十フランのチップを与えた。エレヴェーター・ホールに歩く。  エレヴェーターといっても、三人も乗れば動けなくなる、重力式の、旧式なやつだ。住人の歴史がしみこんだようなそのエレヴェーターで、新城は七階に上った。七階の七〇五号室が、新城の部屋だ。  その部屋は、居間と、寝室と、台所の三部屋続きであった。|風《ふ》|呂《ろ》もついている。窓のカーテンを開くと、前方の建物の|隙《すき》|間《ま》から、セーヌとシテ島が見えた。  コーヒーを|沸《わ》かし、|乾《ひ》からびたパンをそれに浸して口に運んだが、新城はまず、ホテル・ヒルトンのコンセルジュのアンドレーに電話した。 「やあ、電話をくれたんだって」 「そうなんだよ。このホテルに、日本の土地成金が泊まっている。ぜひ秘密クラブに連れていってくれと、しつこくてな」  アンドレーは言った。 「すまん。これから予約を受けているほかの客をロンドンに連れていくんだ。埋め合わせはする。|俺《おれ》は病気で動けないと、ストックホルムから電話があったぐらいに言って、ごまかしておいてくれ」 「しようがないな。じゃあ、俺が案内するか。あんたの顔が|利《き》くとこほど、おもしろいとこじゃないが」  アンドレーは電話を切った。  新城は、今度はローマのホテル・インペリアルに電話を入れた。そこのコンコルジュは、日本から電話があって、一週間後に日本の有名な俳優がローマに着くが、その男をおもしろいところに案内してくれないかと言ってきたと伝える。新城は、 「客が着くのはありがたいが、こっちのスケジュールがちょっと辛いんだ。三日後に、あんたのほうに連絡する」  と言って、電話を切った。  このところ、強い酒ばかり飲んでいたので、かえって安物の|葡萄《ぶ ど う》|酒《しゅ》がよく体に回った。ちょうど昼寝の時間も近づいたし、素っ裸になってベッドにもぐりこんだ新城は、目をつむり、どうやって岸村の女房の松平淳子に近づこうかと考える。一時間ほど考えてから、やっと成功の目算がついたので、ぐっすりと眠った。  二時間ほどの午睡から目を覚ました新城は、シャワーを浴びると、アパルトマンを出た。車に乗り、ミシェルの裏通りにある小さな印刷所に回った。  受付の若者に、 「ボスは?」  と尋ねる。  若者は黙って、地下室の入口を指さして、インターホーンで、 「お仲間が来ましたぜ。ボス」  と、地下室に伝える。  やがて、黒く汚れた手をベンジンで|拭《ふ》きながら、ゴリラのような体格と顔つきの巨漢が地下室から上がってきた。 「友よ」  その男ポール・モランと新城は抱き合った。ポールは対ゲリラ要員として、新城とコルシカで共に闘った旧友だ。 「頼みがある」  新城は言った。 「何でも言ってくれ。偽造パスポートがほしいのか、それとも、運転免許証か」  ポールはニヤニヤ笑った。  新城は、受付の若者のほうに視線を走らせる。 「心配するな、|奴《やつ》は口がかたい」  ポールは言った。 「名刺と、身分証明書とパスポートだ。身分証明書といったって、あんたの腕からしたら、目をつむっててもできるような仕事だ。“ザ・ソサエティ”ニューヨーク本社の|記者《レポーター》ということに俺をしてくれ。名前はそうだな、ヘンリー|鶴《つる》|岡《おか》とでもしといてくれ」  新城は言った。“ザ・ソサエティ”はニューヨークに本社がある。アメリカの上流社会だけでなく、パリやロンドンやローマの、最上級の社交界の情報や、ゴシップを扱う雑誌だ。 「わかった。二時間以内にはつくってみせる」  ポールは約束した。  新城は、近くのサウナ|風《ぶ》|呂《ろ》に入り、そこでマッサージを受けてから、散髪とひげ|剃《そ》りもやってもらった。冷たいジュースを飲んで、印刷所に戻ってみると、ポールは、新城が注文した品を、すでに|偽《ぎ》|造《ぞう》し終えていた。     パ リ      1  ミシェルの裏通りに路上駐車しておいた新城のB・M・W二八〇〇CSは、前後をほかの車にピッタリとはさまれていた。  だが、横に二重、三重に駐車されてないだけましだ。パリやローマでは、二重駐車は珍しいことではない。  自分のB・M・Wに乗りこんだ新城は、エンジンを掛けると、まずバックでうしろの車を押しのけ、次いで前進で前の車を押しやって|隙《すき》|間《ま》を作ると脱出した。バンパーは飾りではない。  岸村四郎の妻であり、映画や演劇界のスターでもある松平淳子が岸村にワン・フロアーを買ってもらっているパトー・アパルトマンは、シャンゼリゼの大通りに近いという。  車を飛ばせば、すぐに着く距離だ。東京のように道が混んでいるところは世界中どこにもない。  だが、いきなり淳子を訪ねたところで、会ってくれるかどうかは疑問だ。だから新城は、一度パトー・アパルトマンに近いホテル・フィリッツに宿をとって、そこから淳子に電話することにする。  長い|暗《あん》|鬱《うつ》な冬が去ったシャンゼリゼは観光客とヒッピーで一杯であった。白い車を運転するパン助はまだ表に出ていないが、歩道にまで|椅《い》|子《す》を並べたカフェ・テラスでは、すでに車や運転免許証を持たぬパン助たちがカモを待っている。  ヨーロッパの都市は、どこも歓楽都市だ。ほとんどのバーは、シャンペーンか発泡酒を一本女に|奢《おご》って店へのショバ代がわりにするとホテルに連れ出せる。割りに|粒《つぶ》|揃《ぞろ》いなのはハンブルクのテレフォン・バー“メイラー”と、“チェリー”というウインク・バーだが、そのかわり、パリには世界各国の女が集まっている。  ホテル・フィリッツは表通りから少し引っこんだところにあった。古めかしい、いわゆる格式高い外観のホテルだ。  そのホテルの中庭の駐車場にB・M・Wを突っ込んだ新城は、レセプションのフロントに向かった。ロビーで人待ち顔のミニやマキシの女たちのなかには新城が知っている|娼婦《しょうふ》も何人かいた。  娼婦といっても、一見お嬢さんか上流夫人風だ。新城を認めてそっとウインクを送ってくる彼女たちに目だけで笑いを返した新城は、レセプションのクラークに素早く十フラン札を握らせ、 「空いている部屋があったら頼む」  と、言う。無論、|流暢《りゅうちょう》なフランス語だ。 「ご滞在は何日の予定です? 前金で頂戴できるなら、何とか都合つけますよ」  コールマン|髭《ひげ》を生やしたクラークは答えた。 「とりあえず二日だけでいい」 「それでは、一応百フランをお預かりしましょう」 「分かった」  新城は百フラン札を出した。 「それでは、パスポートを……」 「私は外国人ではない。フランスの国籍を持っている。名前はヘンリー……いやアンリ鶴岡だ」  新城は答えた。  スーツ・ケースを持ってない新城が手もちぶさたなホール・ポーターに案内されて入ったのは、三階にあるビッグ・ベッド——いわゆるダブル・ベッド——付きの部屋であった。  その部屋に入って少したってから、新城はホテルの交換嬢に、松平淳子のアパルトマンに電話をつないでもらった。 「アロー……?」  中年女の声が電話を通じて応えた。 「松平淳子さんですか?」 「家政婦です。あなたはどなた?」 「“ザ・ソサエティ”ニューヨーク本社のヘンリー鶴岡と申します。マダム松平の優雅なパリ生活ぶりをリポートするために派遣されてきた者です」  新城は答えた。 「今はマダムにお取りつぎ出来ません。あとでこちらから電話します」 「では、ホテル・フィリッツの三〇七号室にお願いします。ヘンリー鶴岡というより、こちら風にアンリ鶴岡と言ってくださったほうが交換手がまごつかないで済むでしょう」  新城は言った。  電話を切って三十分ほどして、その電話のベルが鳴った。ベッドに引っくり返っていた新城は受話器を取上げ、くわえていたタバコを灰皿に放りこむ。  掛けてきたのは、先ほどの家政婦であった。 「マダム松平は、ただのインタビューをご希望なのか、それとも何日間か密着して取材なさりたいのか……と、お|尋《き》きしています」  と、新城に言う。 「出来ましたら、後者のほうを……」  新城は答えた。 「それでは、明日の十一時に訪ねてきてください」 「有難う」  新城は電話を切った。  一度セーヌ川に近い自分のアパートに戻ってライカと数本のキャノンの交換レンズとそれに着替えの品などを詰めたスーツ・ケースを車に積んだ。  その車をカルチェ・ラタンのほうに回す。五月に入ってから急に|陽《ひ》|暮《ぐ》れが遅くなったパリでは、まだ明るい。その頃でも、北欧だと十時を過ぎないと陽は落ちない。  ゆるい坂になった細長いラテン区の商店街の左右は、庶民のためのあらゆる食品を売る店が軒をつらねていた。  牛や豚や羊の頭や臓物、毛を半ば残されたウサギや野鳥、数百種のソーセージやペースト、それに新鮮な野菜や魚が並べられ、黒人を混じえた男女が値切っている。学生が多く、日本ならフーテン・コジキのような身なりの者も少なくなかった。  新城は、その商店街のなかにある臓物料理店で、一本二百円のワイン三本を飲みながら、ほとんどトロに近い味のシャケの|燻《くん》|製《せい》、羊の子宮、牛の脳、それに豚の|睾《こう》|丸《がん》などを|飽食《ほうしょく》した。  オランダのサクランボや、割ると血のように赤い果肉が現われるオレンジなどを買ってホテルに戻り、それを平らげながら、電話で黒ミサ・パーティの主催者に隠語で連絡をとる。  それから、ぐっすりと眠った。十数時間の眠りののちに昨夜の栄養は体に吸収され、体力は完全に回復して、朝マラが痛いほど突っぱっていた。  |風《ふ》|呂《ろ》に入り、入念に|髭《ひげ》を|剃《そ》ってからシャワーを浴びる。浴室に備えつけのドライヤーで髪を整えた。  約束の十一時、B・M・Wをパトー・アパルトマンの裏通りに|駐《と》めた新城は、その建物の前庭の|鉄《てっ》|柵《さく》の門のブザーを押した。  鋭い目付きの|痩《や》せたコンセルジュが門のところにやってきた。 「どなた様にご用で?」  と、尋ねる。 「マダム松平に面会のアポイントメントを取りつけてある、“ザ・ソサエティ”の者です」  新城は答えた。  コンセルジュは、門の|脇《わき》の詰所にある電話で松平淳子に連絡をとった。詰所を出ると、固い表情を愛想笑いに変えて、 「どうぞ」  と、門を開く。  前庭に駐まっている数台の車は訪問客のものらしい。それらも全部高級車であったが、中庭に見えるそのアパルトマンの居住者のものらしい車は、ロールス・ロイスとメルツェデス・ベンツのリムジーン、それにシトローエンDS21やSM、それにアストン・マーチンなどだ。  カメラ・バッグを左手に|提《さ》げた新城が、一流ホテルのそれから売店を取り去ったような構えのグランド・フロアのロビーに入ると、|燕《えん》|尾《び》|服《ふく》をつけた初老の男が腰をかがめて迎えた。 「マダムはあなた様を歓迎される、とおっしゃっています」  と言う。執事であろう。  銀髪のその執事に案内されて、新城はエレヴェーターで七階に昇った。七階全部を、淳子は亭主の岸村の汚れた金で買ってもらっているのだ。  |贅《ぜい》を|尽《つ》くしたサロンに通され、体が埋まるようなソファに身を沈めた新城のところに、三人の女中がコーヒーを運んできた。  たっぷり十分ほど待たせてから、松平淳子が姿を現わした。  年は三十を越している|筈《はず》だ。しかし、お抱えのマッサージ師の努力と美容整形手術のせいで、|小《こ》|皺《じわ》一つない。  クレオパトラのようなヘア・スタイルと、|象《ぞう》|牙《げ》のような色の|白《おし》|粉《ろい》を使った化粧法によって、|謎《なぞ》めいたオリエンタル調をひけらかせている。  体のほうは大柄であった。脂がついた腹をコルセットできつく締めあげているらしい。 「お会いできたとは夢のようです。私はヘンリー鶴岡……電話で申しあげた通り」  立上っていた新城は偽造した名刺を差しだし、偽造した身分証明書を見せた。 「失礼……アメリカ生まれの三世なの? フランス語がお上手ですわね」  淳子はフランス語で言った。少女歌劇調の歌うようなしゃべりかただ。ジェスチュアも宝塚調であった。 「お|褒《ほ》めにあずかって光栄です。ニューヨークやボストンやフィラデルフィアにも、フランスの名士がたびたびいらっしゃいますので」  新城は優雅に一礼した。 「お掛けになって、くつろいでください」 「有難う」  新城は言われた通りにした。演技の神よ自分に乗り移ってくれ、といった祈りに似た気持ちで、賛美の表情を浮かべ、淳子を見つめる。  向かいのルイ王朝時代のものらしい|椅《い》|子《す》に腰を降ろした淳子は、高々と脚を組んだ。コルセットにつながっているらしいストッキングの|吊《つ》り|紐《ひも》まで見える。脚は細いが、|腿《もも》は豊かだ。 「“ザ・ソサエティ”には毎号目を通してますのよ」 「ご愛読ありがとうございます。来月号には、あなたに関する記事が十二ページ|載《の》ることになっています」  新城はもっともらしく言った。      2 「十二ページも!」  日本の大衆雑誌の記者たちには露骨にさげすみの視線を向ける淳子であったが、新城がヨーロッパやアメリカの最上級の社交界の情報を扱う“ザ・ソサエティ”の記者と思いこんでいるから、自己満足に|瞳《ひとみ》をキラキラさせた。 「したがいまして、一日や二日の取材ではどうにもなりません」  新城は言った。 「分かりましたわ。ホテルを引き払って、ここにお泊まりになってくださる? 五日間……五日あれば記事はできるでしょう?」 「じゃあ、お言葉に甘えまして」  再び立上った新城は、淳子の手の甲に唇を寄せた。 「それでは、一時間後にまた会いましょう。今日の昼は小説家のレオン・ベコーさんや詩人のロベール・マレノさんと会食することになっているの」  淳子は答えた。  一度淳子のアパルトマンを出た新城は、フィリッツ・ホテルに寄ってチェック・アウトし、車は自分のアパートの前の通りに移した。  タクシーに乗って淳子のアパルトマンに戻る。豪勢なサロンで、化粧直しをし終え、マキシ・スタイルになった淳子はジン・トニックのグラスを手にしていた。  執事に案内された新城は、あてがわれた部屋に入った。中庭に面した広い寝室の一つだ。淳子のフラットには少なくとも十五部屋はあるのだろう……と新城は見当をつけた。  顔を洗って再び|髭《ひげ》を|剃《そ》り、ワイシャツを着替えてからサロンに移ると、淳子が、 「では行きましょうか?」  と、腰を上げた。 「会食の場所は」  新城は尋ねた。 「旧中央市場近くの“エスカルゴ”。お二人の芸術家は庶民的な雰囲気を愛していらっしゃるの」  淳子は答えた。  あんな気取った店が、何で庶民的なことがあるものか……と腹のなかで薄笑いしながらも、新城は|頷《うなず》いてみせてから右腕を淳子の左腕にからませた。 「お願い……あなたが“ザ・ソサエティ”の記者だということを二人の芸術家に|悟《さと》らせないようにして。あの二人はとても気むずかしいのよ。だから、店に着いたら、別のテーブルにあなたは|坐《すわ》るのよ。写真も、隠し|撮《ど》りでないとまずいわ」  淳子は言った。 「分かりました。私は勝手が分からぬ日本からの観光客ということにして、ブロークンな英語をしゃべって見せましょう」  新城は答えた。  アパルトマンの車寄せに、運転手付きの淳子の車が中庭から回されていた。  |二《ツー》ドアの四座席クーペを特別に|四《フォー》ドアに改造した|燻《いぶ》し銀色のシトローエンSMだ。マセラッティのDOHCエンジンを積んだ最新型で、当時はまだパリでも正式には市販されてなかった。  運転手はマリオという名の若いイタリー人であった。血の気が多そうな顔つきだ。淳子と新城のために車の後部ドアを開く。  車高が自動的にも調節できる装置がついた|窒《ちっ》|素《そ》ガス・スプリング付きのハイドロ・ニューマチック・サスペンションを持つそのシトローエンは、二人が乗りこむと一度|尻《しり》を沈め、油圧で元の高さに戻った。  四段階に地上高を調節できるそのサスペンションは、荷重や路面の変化にかかわらず、地上高を決められた高さに保つのだ。  ステアリング・ハンドルを回すのに応じてドライヴィング・ランプが照射方向を変えるという特徴を持つそのシトローエンSMは、二・七リッター百七十馬力の回転を上げて跳びだしたが、加速は大したことはない。  しかし、独特のサスペンションのため、石畳が多いフランスの市街地でも、実に乗り心地がいい。震動はほとんど伝わらない。  五速のミッションのうちの四速までを駆使してマリオは飛ばした。フランスではほとんど使わないクラクションをわめかせながら、のんびりと走る個人タクシーの群れを右から左から抜く。  個人タクシーの運転手は老人が多く、なかには八十近い者さえいる。そういった運転手は話し相手に|飢《う》えているかのように、客とのおしゃべりを楽しむ。  道行く人々は、本場でもまだ珍しい車と、彼等から見ればひどくエキゾチックらしい淳子に注目した。淳子を盗み見た新城は、彼女が自己満足の微笑を浮かべているのに気づく。  パトー・アパルトマンから旧中央市場までは二キロたらずであった。  そこに近づくと、道の左右には露店が並び、朝の|築《つき》|地《じ》のようであった。旧中央市場とはいっても、まだ完全にはオルリーの近くに市場は移しておらず、一部はまだ営業中だから、主にそこで働く人々のために露店が出ているのだ。  レストラン“エスカルゴ・モントルギイュ”は、その市場のすぐそばにあった。淳子はそのレストランの二百メーターほど先で一度車を|停《と》めさせると、 「あなたはここで降りて。店のマネジャーに、あなたのことは電話で言ってあるの。だから、二人の芸術家にわたしたちの関係を|悟《さと》られないように、少したってから店に来てね」  と、新城に言う。  |頷《うなず》いた新城はカメラ・バッグを持ってシトローエンから降りた。シトローエンが再び走り、レストラン“エスカルゴ”の前で停まるのが見える。  新城はゆっくりとライカにキャノンの広角レンズをセットした。店々のショー・ウインドウを|覗《のぞ》きこんだり、店仕舞いをはじめている露店をひやかしたりしながら、ぶらぶらと“エスカルゴ”に近づく。  露地では労働者が地面に腰を降ろし、ミネラル・ウォーターより安いアルジェリア産のブドウ酒をラッパ飲みしながら、チーズとソーセージを細長いパンにはさんだものを食っている。  レストラン“エスカルゴ”は時代がかっていた。格式高いことを誇示しているようだ。二、三度その店に日本からの観光客を連れてきたことがある新城ではあったが、カメラ・バッグを渡したクロークの前で、三、四人の給仕に迎えられると、 「席はあるかね?」  と、わざと下手な英語で言う。横目で|覗《のぞ》いてみると、一階の突き当たりのテーブルで、すでに淳子は二人の男と同席し、シャンペーンのグラスを手にしていた。  淳子にたっぷり金を|掴《つか》まされているらしい支配人は、新城にウインクした。主任ウェイターが、新城を淳子たちの横のテーブルに案内する。  客の数よりも、|ギャルソン《ウェイター》たちのほうが多いぐらいだ。それも、酒の注文を取ったり、どの酒がその店のどの料理に合うかを勧めたりするソムリエや、酒を運ぶ係、酒を注ぐ係、料理の注文を取る係、料理を運ぶ係、食器係と階級制のようだ。  おまけに、地下の酒倉に続く階段のところでは、酒倉の番人が|睨《にら》みをきかしている。  まず食前酒に、シェリー・アンド・アイスをソムリエに頼んだ新城は、淳子のテーブルの二人の男をさりげなく見る。  小説家のレオン・ベコーも、詩人のロベール・マレノも新聞や雑誌で見た顔であった。二人とも三十代だ。  淳子たちはヌーボー・ロマンについてもっともらしく会話を交わしていたが、もとより新城にはそんな気取った会話を盗み聞きする気はない。  ただ、どうやって淳子の信用をかち得、そのあと、どうやってなぶり殺しにするか、というだけのことだ。  料理の注文をとりに来た初老のギャルソンに、オニオン・スープと舌ビラメの白ソース天火焼き、それに豚の脂と血で造ったソーセージと|カタツムリ《エスカルゴ》とカエルの足の料理のところを指でメニューをおさえて示し、再び現われたソムリエには、ルションのヴァン・ローゼ、すなわちローゼ・ワインを注文する。  氷で冷やしたシェリーのアペリチーフを飲み終えた新城は、淳子を信用させるために、カメラで店内の様子を|撮《と》りまくり、再び腰を降ろしざま淳子たちを隠し撮りする。  淳子たちの食事は、キャヴィアとフォア・グラの前菜からはじまり、二時間以上かかった。そのあいだ、ひっきりなしにフランス文壇の|噂話《うわさばなし》などをしている。  新城にはニンニクを強く|効《き》かせた青っ鼻の汁のようなソースで味つけしたカタツムリ料理は|美《う》|味《ま》いとは思えない。  だから、皿についた一ダースほどの|窪《くぼ》みに置かれた|殻《から》つきのそれらカタツムリを左手の薄いペンチのような道具ではさみ、右手のフォークで身をほじくりだして口に入れるごとに、ヴァン・ローゼで口を洗う。  その新城に、主任ウェイターが、ソースをパンに浸して食えと、押しつけがましく忠告する。  淳子たちの会食が終わったとき、新城は間を|保《も》たすために飲んだ三本のヴァン・ローゼのせいで少々眠気がさしていた。  小説家と詩人の勘定も自分で払った淳子は、ボーイに呼ばせておいたハイヤーで彼等を送りとどけさせる。  淳子が店を出て二、三分してから新城も表に出た。ほかの安い店で食事を済ませたらしいマリオが運転するシトローエンSMに乗せてもらって、パトー・アパルトマンに戻っていく。      3  それから五時まで昼寝の時間だ。新城はあてがわれている部屋でぐっすりと眠る。まだ計画を実施するまでには充分な時間が残っている。  昼寝から覚めて化粧直しをした淳子は、ピエール・ジョルダンのブッティークに向かった。彼女が乗ったシトローエンSMに、無論新城も同乗する。  市役所に近いピエール・ジョルダンの|高級服装店《オートクチュール》は、クリスチャン・ディオールの店と並んで、最も高くデザインした服を売りつける。  その店のショー・ウインドウには、新作の服や手袋や帽子だけでなく、ジョルダン自身が調合創作したと称する香水も飾られている。  男とも女とも交わることができるジョルダンは、|額《ひたい》の髪がかなり後退した、抜け目がない眼付きの男だ。  淳子の手をとって、|恭《うやうや》しく唇を当てたジョルダンは、 「十着とも、マダムのお体にぴったりと合わせるのを待つだけになっております」  と、愛想よく言い、それから淳子の耳に唇を寄せて、何か|囁《ささや》く。頷いた淳子は、新城に向かい、 「ムッシュー・ジョルダンは、ご自分のデザインをローマやニューヨークや東京のデザイナーに|真《ま》|似《ね》されてマス・プロされては困るので、撮影する服は、わたくしのだけにして欲しい、とおっしゃられているの」  と、フランス|訛《なま》りの英語で言う。 「分かりました、と伝えてください」  新城は答えた。  淳子のためにジョルダンがオリジナル・デザインした十着の服のための仮縫いは、撮影スタジオのようなサロンで行なわれた。  十人のお|針《はり》|子《こ》がジョルダンの指示で動く。スリップ一枚になった淳子はコルセットで腹をきつく締めつけているのが、もっともらしくカメラのシャッターを押し続ける新城にはよく分かった。  淳子が作らせている服は、一着について五十万円ぐらいは取られるだろう。淳子の亭主が権力と結びついて日本の庶民たちから|絞《しぼ》り取っている金は、こうやって湯水のごとく浪費される。  午後六時でピエール・ジョルダンの店は閉店になるのに、淳子のために、店の連中は午後七時半近くまで働いた。淳子はお針子たち一人一人に約一万円相当のチップをフランでくれてやった。  そのあと、レストラン・グラン・ヴェフールで新城に夕食をおごってくれた淳子は、前衛劇場でジャン・アヌイの芝居を付き合わさせ、それからシャンゼリゼに近いストリップ劇場“クレージー・ホース”に新城を連れて繰りこんだ。  売春都市という点ではアムスやハンブルクに劣らぬパリなのに、一般のエロ・ショーは、せいぜいチラッと恥毛を見せる程度だ。  ストリップ・ショーのクラブで名高い“クレージー・ホース”でさえも、本番の実演やファッキング・フィルムの映写は行なわれない。カソリックの偽善のせいかも知れない。  ところが、ハンブルクから北欧にかけては昼間から、喫茶店のようなところでも、白黒やレズやサド・マゾやホモの本番ショーをやり、合間にフィルムを映す。  ショーの女たちが舞台——と言っても客席のあいだにあるベッドだが——から、客に呼びかけて、タダでやらせるところもある。  そういったものをうんざりするほど見てきた新城だから、女を混じえた観光団体向けのパリのショーを見ても退屈なだけだ。  だが淳子は小鼻を開き、胸を波打たせて熱心に見ている。ミスター・フランスと称する男がボディ・ビルの実演を見せると、淳子の|瞳《ひとみ》がとろんとしてくる。  その店からの帰りに、気取った表情を取戻した淳子は、 「明日はムッシュー・アルベルト・エルフェルドの城にお招きを受けているの。あのかたは、スウィスとスペインとブローニュの森とニースに城を持っていらっしゃるけど、明日からのパーティはスウィスの城のほうよ。二日ぶっ続けなの」  と、新城に言う。 「エルフェルド? |I・O・T《アイ・オー・ティー》……インヴェスターズ・オーヴァーシーズ・トラストの会長の?」  新城の声は、思わず高まった。 「そうよ。あのバートよ」  淳子は誇らしげに|呟《つぶや》いた。  I・O・Tは、バートの愛称で呼ばれているアルベルト・エルフェルドが創立した巨大な国際金融コンツェルンだ。  イアン・フレミングのスパイ小説のなかにしばしば登場する国際秘密組織スペクトルの首領エルンスト・ブロフェルドのモデルであるとも言われるアルベルト・エルフェルドは、|謎《なぞ》に包まれた男だ。父はユダヤ人、母はロシア人と|噂《うわさ》されるエルフェルドは十年前までは、無名に近い人物であった。  生国はどこなのか不明だが、いつの間にかアメリカにもぐりこんで市民権を|獲《と》り、ニューヨークで証券セールスマンをやっていたバートは、十五年前、まだ米兵が進駐していたパリを訪れた。  そこで彼が見たのが、当時は圧倒的にドルの強かったために|闇《やみ》ドル操作で派手に遊ぶ米兵たちと、国家も銀行も信用せずにタンス預金した財産がインフレのために急激に価値を失っていくのを嘆くフランスのプチ・ブルたちであった。  バートはそこで、満期には必ず二倍から三倍にして返すというフレ込みで投資信託会社を作った。  無論、タコ配によってその会社は維持されたが、解約しようとすれば半年分の積立金が投資者には一文も戻らない巧妙な|約《やっ》|款《かん》によって、ボロを出すことなく次々に投資者を集めることができた。  投資者が多くなると大きな成長企業に効果的に投資することもできる。バートの会社は急激に大きくなった。  そうなると、タコ配をやらなくともバートの会社はやっていけるようになった。そこでバートは五年後、I・O・Tを創立したのだ。  I・O・Tの事業の中心は投信事業だが、百社あまりの子会社を持ち、世界各国で投信のほかに、生命保険、銀行、不動産業を派手に行なっている。世界最大の国際金融コングロマリットだ。  現在のI・O・Tは、総本部が法人税がかからぬカナダのモントリオール、マネージメント会社は法人税が安いルクセンブルク、現金を扱う本部は税金が安い上に貨幣価値が安定しているスウィスのジュネーブにある。  七十五万人の客を抱えるI・O・Tの資産内容は約百億ドルと言われている。三兆円をはるかにオーヴァーしているわけだ。  そして、怪物と呼ばれる会長のアルベルト・エルフェルドは、金にあかして世界三大プレイボーイのうちの一人という地位を買い取り、自家用ジェット機で遊びに出かけているときのほかは、自分の四つの城のうちのどこかで大パーティを開いている……。 「そいつは|凄《すご》い。私もご一緒させてくださるんでしょうね? いや、断わられても、無理にでもついて行きますよ。そうでないと、いい記事が出来ませんから」  新城は言った。 「いいわよ。オルリーにあの|男《ひと》の自家用ジェット機が迎えに来てくれるの。あなたが|坐《すわ》れる席ぐらいはあるわ」 「明日の何時に出発です?」 「午後四時よ……ところで、約束してもらいたいことがあるの」 「おっしゃってください」 「パーティには、ビディ・パン・スケーノも招待されていると思うの。ビディは、何とかしてバートを|蕩《たら》しこんで金を絞り取ろうと一生懸命なの。なにしろ、あの女は欲の塊りだから——」  淳子は唇を|歪《ゆが》めて吐き捨てるように言い、 「でも、バートとビディのパトロンのシオンチャイルド男爵は友達だわ。いつも情報を交換しているの。だから、バートはビディの|狙《ねら》いを何もかも知った上でからかっているのよ。それに、ビディが血道を上げているという|噂《うわさ》をたてられたら、バートのプレイボーイとしての名声が上るし」  と、付け加える。 「ビディですか。それで私が守る約束というのは?」  新城は呟いた。  |赤《あか》|坂《さか》のナイト・クラブのホステスであったビディは、日本の商社を通じてボルネシアの独裁者であったパン・スケーノ大統領に献上された。その後彼女は日本の大企業とボルネシア政府との汚職のパイプ役として|莫《ばく》|大《だい》な私財をたくわえてスウィスの銀行に預け、ボルネシアに革命が起こったのちは、パン・スケーノを捨ててパリに移り、社交界を泳ぎ渡っている。  現在ビディはユダヤ系のシオンチャイルド財閥の|総《そう》|帥《すい》ギイ・ド・シオンチャイルドの愛人の一人になっているが、ギイは自分の女に対してはケチで有名だ。  もっとも、ケチだとはいっても、愛人一人について年に三千万円から五千万円ぐらいは使うらしいが、二兆円の私財を持つシオンチャイルドの当主にしては渋いというわけだ。 「わたしが刺身だとしたら、あの女を刺身のツマとして扱ってほしいの。例えば、わたしとバートが親しげに踊っているさまを、あの女がうらやましげに見つめている写真を“ザ・ソサエティ”に載せてくださるとか……」  淳子は言った。 「分かりました。我々ジャーナリストは、あの女に今まで散々な目にあわされてますからね。ここらでシッペ返しをしてやるのも面白い」  新城は笑った。 「お願いよ」  淳子は新城の手を熱っぽく握った。  淳子のアパルトマンのなかにあてがわれている寝室に戻った新城は、シャワーを浴びてベッドにもぐりこんだが、容易には寝つかれそうもなかった。  淳子の口ぶりからして、淳子とエルフェルドは、かなり深い関係にあるらしい。  その関係が、ヨーロッパの社交界での淳子の名を高めるために持たれたのか、それとも金がからんでいるのか……新城の目はますます|冴《さ》えてくる。  二時間後、意を決した新城は、ノー・ネクタイのワイシャツとズボンだけを身につけて、自分の寝室からそっと抜け出た。  ズボンのポケットには、先端を|潰《つぶ》した二本の針金を入れてある。スーツ・ケースのなかに隠してあったものだ。  深夜の廊下に人影はない。新城は見当をつけておいた淳子の寝室の前に立つと、ドアに耳をつけた。  室内で歩きまわっているような音は聞こえなかった。新城は二本の針金でドアの|鍵《かぎ》を開き、細目にドアを開いて身を滑りこます。  広い寝室であった。ルイ王朝時代のもののような装飾がしてある。そして淡い光が柔らかに光るスタンドが|脇《わき》に置かれた大きなベッドでは、化粧を落とした淳子が眠りこけていた。  化粧を落とした淳子は、どうみても欲望をそそる女ではなかった。だが新城は、そっとズボンを脱ぐと、手を使って硬く起立させた。  ベッドに近づき、淳子の横にもぐりこむ。淳子は素っ裸であった。しかし、想像していたほどは下腹はたるんでない。  淳子は目を覚ました。叫ぼうとするその淳子の|喉《のど》に新城は両腕を|捲《ま》きつけ、 「大きな声を出されないほうが賢明ですよ。二人とも大人でしょう?」  と、|囁《ささや》く。 「お願い、帰って。今夜は駄目。明日はバートに会わないとならないから」  淳子は|喘《あえ》いだ。 「バートを愛しているんですか」  鋼鉄のようになったもので|蜜《みつ》の泉を|愛《あい》|撫《ぶ》しながら新城は囁いた。 「ちがうわ。沖先生の命令なの。やめて」  淳子は|喘《あえ》いだ。  だが、口では拒んでも、蜜があふれだす。新城はすかさず貫く。甘美な苦痛に|眉《まゆ》を寄せる淳子に、 「心配しなくともいい、私は秘密を守る男です」  と、囁きながらも、エルフェルドと沖元首相がつながっている……と言う淳子の言葉に驚き、その真相をどうしても|尋《き》きだしてやる、と胸のなかで誓う。     オージー・パーティ      1  亭主の岸村が言っていた通りに、淳子の|蜜《みつ》|壺《つぼ》は、熱い息と共に歯が浮くような賛美の言葉をフランス語で|囁《ささや》くと、塩で|揉《も》まれたアワビのように締まった。  新城はゆるやかなペースを、次第に激しいものに変えていった。淳子の|尻《しり》の下にたくましい腕を回して引きつける。  フランスかぶれの淳子は、耐えきれずに漏らす本能のほとばしりの声もフランス語を使った。  新城は商売柄、放射の時間を意思の力でコントロールすることが出来た。偽りの甘い言葉をフランス語で囁き続けながら、淳子を|抉《えぐ》って抉って抉りまくる。  東洋人の硬度は、まさにフニャマラとしか形容できないヨーロッパ人——行為中にも“く”の字に曲がってしまうのですぐにすっぽ抜ける——とは比較にならないが、特に新城のものは|筋《すじ》|金《がね》入りだ。  両脚を高々と上げて新城の胴を締めつけながら、淳子は続けざまに波にさらわれる。 「バートと会うのは、沖の命令だとおっしゃったが、どういうことなんです」  淳子が|怒《ど》|濤《とう》に|溺《おぼ》れこもうとした直前、新城は身を引くようにして|囁《ささや》いた。 「やめないで!……お願い……生殺しにしないで……」  淳子は新城の背に|爪《つめ》をたて、腰を突きあげながら|呻《うめ》いた。巧みに空振りさせた新城は、 「沖はなぜあなたに命令したんです?」  と、尋ねる。 「わたしたちが|贅《ぜい》|沢《たく》出来るためのお金を守るため……もうこれ以上|尋《き》かないで……」  淳子は|喘《あえ》いだ。喘いだが、冷静さを取戻そうとしそうな気配を示した。  新城は、今夜はこれ以上は突っこんだ質問をしないことにした。焦って淳子から敬遠されたのでは元も子も無くなるからだ。  だから、再び偽りの愛の動きをはじめる。フランスの俗語で絶叫しながら淳子は|痙《けい》|攣《れん》し、仮死に近い状態におちいった。新城はしたたかに注ぎこむ。  しばらくして、まだ夢の国をさまよっている淳子から新城はそっと離れた。浴室のビデで入念に洗うと、素っ裸のまま、ワイシャツとズボンを抱えて廊下に出た。  防音装置がついている淳子の部屋ではあったが、|凄《すさ》まじいほどの淳子の声は廊下に漏れたらしい。  廊下には、エレヴェーター・ホールに近い部屋をあてがわれている淳子のお抱え運転手のマリオが立っていた。  若いイタリー人のマリオはスウェーターとスラックス姿に、バックスキンの靴をはいていた。  髪を乱したマリオは、まわりに|隈《くま》が出来て落ちくぼんだ暗褐色の|瞳《ひとみ》をギラギラ光らせていた。握りしめた|拳《こぶし》が小刻みに震え、ズボンの前が異様にふくらんでいる。  苦笑いを浮かべた新城はマリオに目礼したが、憎しみと|嫉《しっ》|妬《と》の表情を|露《あら》わにしたマリオは、新城を|睨《にら》みつけたままであった。  前も隠さずに、 「お休み」  と、|呟《つぶや》いて、新城はそのマリオの横を通り過ぎようとした。 「ムッシュー!」  マリオは|圧《お》し殺したような声を新城にかけた。  新城はマリオのほうに顔を振り向けた。その途端、マリオの体重が乗った右のストレートが新城の|顎《あご》を襲った。  新城にとっては予期していた一撃であった。だがマリオのパンチのスピードは意外に早く、斜めに体を沈めた新城は、やっとのことでマリオの右の|拳《こぶし》を避けるだけで精一杯であった。  体勢が崩れた新城の|脇《わき》|腹《ばら》に、マリオは左のフックをくいこませた。一瞬、新城の脚が鉛のように重くなるほどの威力があった。  マリオのフックを避けることが出来なかったことで、新城は自分に対する怒りから、残忍な笑いが|閃《ひらめ》くのを押えることが出来なかった。  新城がサンド・バッグのようになったと錯覚していたらしいマリオは、その笑いを見て逆上した表情になった。  |狙《ねら》いすました右のストレートを新城の顔面に|叩《たた》きつけてくる。  新城は真剣手ばさみ取りの要領でその右ストレートを両手ではさんで防いだ。マリオの左フックが襲ってくる前に、|鳩《みぞ》|尾《おち》に当て身を突きあげながら|捩《ねじ》る。  瞬間的にマリオは意識を失った。勢いよく倒れようとするマリオを支え、八十キロはあるその体を軽々とズボンのベルトを持って横にぶらさげる。  そうやって、マリオの部屋のドアを左手で開いた。|鍵《かぎ》はかかっていなかった。ベッドにマリオを放りだすと、ドアを閉じてくる。  その部屋は、和室に直したとすれば二十五畳ほどの広さであった。かつてはアマチュアのボクサーでもあり、二輪モトクロスのライダーでもあったらしいマリオは、当時の写真や優勝カップなどを飾ってある。  シャツとズボンを身につけた新城は、気絶しているマリオの|脾《ひ》|臓《ぞう》に、半月後に死にいたる病いが起こる一撃を加えた。  それから、マリオの耳を捩りあげる。|呻《うめ》き声を漏らしながらマリオは目を開く。|瞳《ひとみ》の焦点が定まってくると、 「畜生……」  と、跳ね起きようとした。しかし、鳩尾の痛みに耐えかねて突っ伏す。 「マダム淳子に|惚《ほ》れているのか?」  新城は言った。 「放っといてくれ」  マリオは|口《く》|惜《や》し涙を流した。 「生意気な口をきくんじゃない。私は客だ。客の私を|侮辱《ぶじょく》したということは、マダム淳子を侮辱したと同じことになる」  新城は言った。 「わ、分かりました」  マリオは唇を|噛《か》んだ。 「分かったら、それでいい。私も今夜のことは忘れるから、君も忘れるんだ」 「済みません」  マリオは|呟《つぶや》いた。 「じゃあ、お休み」  新城はマリオに背を向けた。 「待ってください。|俺《おれ》は……私はどうやって倒されたか覚えてないんだ……いや、覚えてないんです」  マリオが苦しい声を出した。 「君の素晴しいフックを避けようとした私の手に君のボディが偶然に当たっただけなんだ。カウンター・パンチのようになったんで|効《き》いたんだろう。君は名誉を重んじる誇り高い男のようだから、|素《しろ》|人《うと》の私に倒されたなんて|吹聴《ふいちょう》しないと信じているよ。じゃあ、お休み」  新城はドアに向かった。  自分の部屋に戻ると、バスに体を沈める。淳子が|漏《も》らした……財産を守るために沖の命令でI・O・T——インヴェスターズ・オーヴァーシーズ・トラストの会長アルベルト・エルフェルドとねんごろな仲になっている……という意味をよく考えてみる。  もしかしたら、沖元首相が、アムステルダムにプールさせているという|厖《ぼう》|大《だい》な資金は、I・O・Tに運用を任せているのかも知れない。  ともかく、あせらずに真相を突きとめて、俺の肉親を自殺に追いやり、国民をコケにして薄汚い大金を稼ぎまくっている連中に一泡も二泡も噴かせてやる。浴室から出てベッドにもぐりこんでからも、新城は|闇《やみ》のなかにしばらく暗い目を|据《す》えていた。      2  十時頃に目を覚ました新城はベッドに朝食を運ばせた。  カフェ・オーレとクロワッサンとマーマレードの朝食を運んできた若い女中は、淳子のところに男の客が泊まることに慣れているようであった。  ベッドのベッド・ボードに当てた|枕《まくら》に背をもたれさせ、はだけたガウンからたくましい素裸の胸を|覗《のぞ》かせている新城を見ても、目をそらそうとはしない。ベッドに組立て式の小さな食卓を乗せ、そこに盆に入れた朝食を置いた。 「奥様は?」  新城は焼きたてらしい温かいクロワッサンを手にして尋ねた。 「もうお目覚めですわ。いま、マッサージにかかっていらっしゃいます」  マドレーヌというその女中は答えた。新城はマッサージ・ルームの位置を|尋《き》いてからマドレーヌを引きさがらせた。  すぐに昼食の時間が来るから、新城は五分ほどで朝食を片付け、服をつけると、カメラ・バッグを持って部屋を出た。  マッサージ・ルームのドアの|脇《わき》にはインターホーンがついていた。新城はそのボタンを押した。  しばらくして、聞いたことのない娘の声が、 「どなた?」  と、|尋《き》いてくる。 「奥様はいらっしゃいますか? もしよろしかったら、マッサージ中の写真を|撮《と》らせていただけないか、と尋いてもらえませんか?」  新城は言った。 「お待ちください」  娘は答えた。  うんざりするほど新城は待たされた。やっとドアが開き、灰色がかった金髪の娘が、 「どうぞ」  と、新城をなかに入れる。白いマッサージ・コートを着けていた。  淳子は化粧を済ますあいだ新城を待たせたらしい。初老のお抱えマッサージ師に|揉《も》まれながら、ビキニ・スタイルの淳子は、|艶《えん》|然《ぜん》と笑う。先ほどの娘——マッサージ師の助手であろう——は、淳子の足の指のマニキュアをはじめる。ドアが開かれた横の小部屋は美容院のような化粧室になっていて、ヘア・ドレッサーとメークアップ師が控えていた。  太陽灯がついているのでフラッシュは必要なかった。礼儀正しく淳子に|挨《あい》|拶《さつ》した新城は、もっともらしく写真を撮りまくった。  写真を撮り終えた新城は、全身美容のマッサージを受け続けている淳子に、日本の生活について記者らしい口調で質問した。淳子は亭主の岸村について、 「夫は|長州《ちょうしゅう》の旧伯爵家の長子なの。日本全国の土地の十分の一は岸村家の持ちものなの。ですから夫は自分の土地を、家を建てる土地が手に入らなくて困っているかたがたに、売って差しあげているの」  と、吹いて、新城をひそかに苦笑させた。  昼食は外でではなく、シャンデリアが輝く客用食堂でとられた。食卓には、新城のほかに、美男の映画スターであるアロン・ディロンが招かれ、淳子といちゃつきながらマキシムから呼ばれたコックが作った料理を平らげる。新城はその様子を撮影させられた。  昼食後、淳子から国宝級の浮世絵をもらったアロンは退散した。そして午後三時、淳子と新城は、マリオが運転するシトローエンSMに乗りこむ。  マリオは殴られた|鳩《みぞ》|尾《おち》がまだ痛むようであった。ときどき顔をしかめながら、オルリー空港に向けての無料の高速道路を飛ばす。  空港に近づくと、右手に試作中のコンコルド機が見えた。そして空港はスト中であった。一般客にも関税検査はまったくない。出入国の係官もそっぽを向いてタバコをふかし、パスポートをろくろく見もせずにスタンプを押す。  ヘンリー鶴岡と、淳子に対して名乗っている新城であった。しかし、ポール・モランが偽造してくれた鶴岡名義のパスポートを持っている新城のことであるから、出入国の検査が厳しかったところで困ることはない。  世界最大の国際金融コンツェルンI・O・Tの会長バート……アルベルト・エルフェルドの自家用ジェット機ボーイング七二七は、十番ゲートの前のスポットに|駐《と》まっていた。エルフェルドの使用人が、リムジーンで、淳子と新城、それに荷物を機内に運ぶ。  その七二七機内は改造され、前半分がバーやサロンや食堂、後半がベッド付きの個室になっている。ドアがついた個室の数は狭いとはいえ充分だ。  サロンにはすでに七、八人の客が乗っていた。そのなかで、失意の病床にあるボルネシアの元大統領パン・スケーノを捨てて浮かれ歩いているビディ・パン・スケーノが女王のように振るまっていた。  整形に整形を重ねたビディの顔は、いかにも男心をそそるものがあった。しかし、整形で背丈までのばすことは出来なかったので、いかにヒールが高い靴をはいていても、顔や頭の大きさと小柄な体がアンバランスであった。  ほかの客は、有名な画家や女優、それにシャンソン歌手などだ。ルオーの絵を数十点抱えている億万長者のピエール・ブランクに手を握られ、歯が浮くような賛辞を受けていたビディは、入ってきた淳子のほうに振り向いた。  二人の視線が交錯し、火花が散った。だが二人は一瞬後には、|臈《ろう》たけた仮面の微笑を取戻した。ビディは、ピエールの手をそっと外して立上り、 「まあ、お久しぶり」  と、フランス語で歌うように言って淳子に歩み寄る。 「今日は一段とあでやかね」  淳子もフランス語で答えた。二人は|抱《ほう》|擁《よう》しあう。  抱擁を解いたビディは、 「エスコートの素敵な男性はどなたなの?」  と、新城のことを|尋《たず》ねた。 「セントラル映画の宣伝担当の重役の鶴岡さんよ。社長の|甥《おい》なの」  淳子は新城と打合わせてあった通りに言った。セントラル映画と淳子は、年間出演三本の契約を交わしている。 「ぜひ紹介して」  自己PRの塊りであるビディは目を輝かせた。その頃には、淳子とビディのまわりに、男の客が集まっている。  淳子はビディだけでなく、全員に新城を紹介した。新城は優雅にふるまった。皆に断わってからカメラをバッグから出す。  やがてボーイングにエンジンが掛かり、皆は一度食堂寄りの隔壁に並べられたソファに移って、安全ベルトをつける。機はゆっくりと滑走路に向けてタクシーし、そこでブレーキを掛けたままエンジンをフル回転させる。  ブレーキが緩められると、エネルギーを|溜《た》められて身震いしていた機は猛然と走りだした。荷重が軽いために、三十秒もかからずに離陸する。  機が上空に達すると、スチュワードが皆の安全ベルトを外した。自由になった客たちに、パーサーとスチュワーデスがカクテルを配る。  淳子を中心とした写真をフィルム一本分撮った新城が、ジン・ライムのカクテルを二杯飲んだとき、機はもうスウィスの上空に来ていた。  上空から見ると、日本の中部山岳地帯とよく似ている。山々のあいだの川沿いに村落がある。  機が降りたのはチューリヒの空港だ。バート・エルフェルドの迎えのメルツェデス六〇〇リムジーンが三台、空港のなかまで入って待っていた。  バートの専用機のタラップの下まで来た出入国管理官は、皆のパスポートにすぐにスタンプを押した。  三台のリムジーンに分乗した淳子たちは、ルツェルン湖に面したバートの城に向かう。超ロング・ボディのリムジーンの後部座席は二列になっていて、向かいあって|坐《すわ》れるようになっている。無論、カクテル・セットもついている。  ヨーロッパ道路E六号沿いの光景は新婚旅行者向けだ。新緑と万年雪の山々との対照が鮮やかであった。  バートの城は、エメラルド・グリーンのルツェルン湖とルツェルンの街を見おろす丘の上にあった。城のまわりは外堀と高い城壁に囲まれ、その城壁をくぐると、使用人の住居が並んでいる。広場は駐車スペースにもなっていた。  そして、城自体は、|跳《は》ね橋がかかった内堀の内側にあった。一行は跳ね橋を歩いて内堀を渡る。  執事に迎えられた一行が渡り切ると、橋は跳ねあげられて、世間の干渉を断ち切った。  バート……アルベルト・エルフェルドは、石畳の中庭——その広さだけでも野球場ほどある——に出て一行を迎えた。  年は五十前の|筈《はず》だが、黒っぽい髪は半分近く|禿《は》げあがっている。背は高く|痩《や》せぎすだ。|精《せい》|悍《かん》な顔と、好色な目を持っている。 「ようこそ、皆様。よくいらっしゃいました。ドイツやイギリスのかたたちがお待ちかねですよ」  バートは顔一杯に笑いを浮かべた。淳子とビディに公平に会釈する。広いカクテル・ルームに皆を案内した。  そこでは、西ドイツやユナイテッド・キングダムの大物の政治家や女優、それに財界の指導者や芸術家たちが、カクテルのグラスを手にしていた。  バートは皆を紹介した。すでに淳子が電話で言ってあったらしく、新城はセントラル映画の重役ということで通った。  やがて、早目の夕食会が豪華な大食堂で開かれた。一人分の実費が百ドルはかかっている。酒にしても、赤は一九二一年のボルドーのシャトー・マルゴー、白は二九年のソルテーヌのシャトー・イカンといった具合だ。  食事が終わり、ダンスが行なわれた。パーティといっても何ということはないではないか……と、新城が失望しかけた頃、執事が大きな葉巻箱に入った紙巻タバコを配った。新城のところに来ると、 「カメラを預からせていただきたいのですが……」  と、言う。 「構わない。だけど、大事に扱ってくれよ」  新城は答えた。  執事は指を鳴らして下男の一人を呼んだ。下男は、|恭《うやうや》しく新城のカメラを運び出した。新城は執事から受取ったタバコに火をつける。  マリファナ・タバコであった。だが、それだけではない。アヘンも混ぜられている。強く煙を吸いこんだ新城は、一瞬ながら、ふらっとしたほどであった。  皆にそれを配り終えた執事は、下男が運んできた麻薬タバコ入りの箱をサロンの要所要所に置いた。  サロンのシャンデリアを消し、執事や使用人たちは姿を消した。バートや客たちは|踝《くるぶし》が埋まるほど分厚い|絨緞《じゅうたん》の床に|坐《すわ》りこんで煙を吐きだす。  マリファナがアヘン入りと知って、新城は煙を肺や鼻に通さなかった。だが、口から吐きだしたり、他人が吐いたりした煙をうっかり吸いこむだけでもこたえる。  パーティの客たちもホストも、しばしばアヘン入りのマリファナに親しんでいるようであった。  だから、はじめて吸った者なら気分が悪くなるのに、彼等は一本目を吸い終わると|恍《こう》|惚《こつ》とした表情になってきた。二本目に火をつける者もいる。  上体をゆるやかにゆすっている者もいる。      3  灰色がかった金髪のフランスの映画女優のヴェロニカ・ニコールがまっ先に脱いだ。  |陽《ひ》|焼《や》けした体は漂白されたような金色の|産《うぶ》|毛《げ》で輝いている。ビキニのパンティの跡が鮮やかだ。  若いヴェロニカは露出狂の気もあるようであった。  靴も脱いで一人で踊りながら、|坐《すわ》っている男たちの前で左右の脚を開きながら交互に持ちあげる。そこに鼻や舌を突っこむ男もいた。  そのとき、一匹のシェパードが廊下から跳びだしてきた。すぐ|脇《わき》を駆け抜けられた女たちが悲鳴をあげる。  その茶色がかった黒いシェパードは|仔《こ》|牛《うし》ほどもあった。  ヴェロニカに体当たりする。ヴェロニカは仰向けに引っくり返った。  部屋の電気は消え、天井から一条のスポット・ライトが強烈な光線を流した。シェパードとヴェロニカを浮かびあがらせる。  シェパードは、両|股《もも》を開いて倒れたヴェロニカのあいだに鼻を差しこんで|嗅《か》いでいた。  ヴェロニカは震えはじめた。シェパードは、アッシュ・ブロンドの髪に|噛《か》みついてから、前脚と|顎《あご》を使ってヴェロニカを|俯《うつむ》けにさせた。  しかし、ヴェロニカが腹を床につけているのでうまくいかない。シェパードは焦り、鼻に|皺《しわ》を寄せて、|獰《どう》|猛《もう》な|唸《うな》り声をたてた。  それを見ている男も女も、アルコールと麻薬のせいもあって、異様なほど興奮してきた。  バートは、淳子とビディを左右に抱いてまさぐっている。  ほかの男女もカップルを組んでいた。男と男、女と女というのも幾組かある。新城は、ドイツの絹のようなマロン・ブロンドの若い歌手ヘレーヌ・ルーエックを抱き寄せる。ゲルマンだけに、ヘレーヌはドレスをつけていると細っそりして見えても、抱き寄せてみるとヴォリュームがある。  スポット・ライトのなかでは、焦ったシェパードに顔を|噛《か》まれそうになったヴェロニカが、やがてシェパードの意にしたがった。  シェパードは焦らずに済むことになった。たくましく振るまう。ヘレーヌは熱い洪水になっていた。  そのときには、客の幾組かのカップルは本番に移っていた。  バート・エルフェルドは、淳子とはじめている。そのバートにビディがしがみついてせがんでいる。  新城は、スカートをまくりあげたヘレーヌをアグラをかいた|膝《ひざ》の間に沈めて楽しむ。  うんざりするほどのあいだ続けたシェパードは、根元が野球のボールのようにふくれあがった犬類独特の連結器を滑り出させ、廊下に去った。  続いて、今度は本職のショーのカップルがスポット・ライトの下に登場した。男がマゾで女がサドだ。  そんな調子で、パーティはおよそ四十八時間にわたって続けられた。  新城はパーティがお開きになるまでのあいだに十人の女と交わった。ビディとも寝て、夢うつつの彼女から、 「ボルネシアからスウィス銀行に送ってあった百万ドルを、いまはバートのI・O・Tに預けてあるの……利子だけで、年に二十万ドルが入るわ……スウィス銀行だと、たったの三万ドル……だから、バートはわたしの守り神なの」  というのを聞くことが出来た。  中心部のヒダまで整形したということだが、ビディの味は大したことはなかった。そのビディは淳子について、 「バートが言ってたわ。アムスの日本商工会館に一度プールされた沖先生や富田先生の海外資金や淳子のハズの岸村たちのお金は、以前はスウィスの銀行に大半の運用を任せていたけど、今はバートのI・O・Tにほとんど全部を移したんですって。淳子がこっちで|贅《ぜい》|沢《たく》していられるのは、バートのご機嫌をそこなわないようにサーヴィスするためのお手当を沖先生からもらっているからよ。|勿《もち》|論《ろん》、岸村の汚いお金もあるけど……あの女はパン助だわ」  と、自分のことは棚にあげてしゃべった。  バートのジェット機でパリに戻った翌日、ルーブルの近くの画廊でピカソの小品を五万フラン出して買った淳子は、ツール・ジャルダンで新城に|鴨《かも》料理——絞った血のソースを掛けて焼く——をおごったあと、マリオが運転する車のなかで、 「もう取材は充分でしょう? いつもカメラに|狙《ねら》われていると落着かないわ」  と、言う。 「長いあいだ取材に協力していただいて有難うございました。ムッシュー・エルフェルドのパーティの様子をくわしく書きますから、雑誌は売れに売れるでしょう」  新城は日本語で答えた。 「あ……あなた、日本語が使えるの!」  淳子は顔色を変えた。日本語で叫ぶ。 「はい。これでも日系人ですから」  新城はふてぶてしく笑った。 「どうして、日本語が話せるのに、知らない振りをしてたの?」  淳子の|瞳《ひとみ》に|怯《おび》えの影がひろがった。 「マダムは日本人なのに、日本語を|軽《けい》|蔑《べつ》していらっしゃる、と聞いたことがありますので。いま私が日本語を使っているのは、マリオに聞かれないように、との配慮からです」  新城は言った。 「ねえ、お願い……バートのオージー・パーティのことは記事にしないで」  淳子は新城の手をきつく握った。 「それは無理ですよ。あなたとバートがアクメに達したときの様子も、隠しカメラでバッチリと撮ってありますしね……。あの写真を今度の記事のタイトル・バックに載せる積りです」  新城はニヤリと笑った。 「やめて、許さないわ、裏切りよ!」 「どうしてです? うちの雑誌も売れないことには話になりませんからね」 「バートに電話するわ。バートから“ザ・ソサエティ”の社長や編集長に電話してもらうわ!」 「効き目があるといいですがね。うちの雑誌は大企業の広告の申し込みが多すぎて、断わるのに苦労しているのが実情ですから」 「…………」  淳子はヒステリーの発作を起こしそうな顔付きになった。  新城はそれを見て、突然、好色な笑いに切替え、 「美しいマダムを心配させて済みませんでした。いいです、いいです、オージー・パーティのことは記事にしないようにします」  と、言う。 「本当に? 約束してよ!」  淳子は新城に抱きついた。マリオの運転がさらに乱暴になった。 「そのかわり、私のほうも、無条件というわけではない」  淳子の耳を唇で|愛《あい》|撫《ぶ》しながら新城は|囁《ささや》いた。 「分かっているわ。わたしだって子供ではないもの。いくら払えばいいの?」  軽く身震いしながら淳子は囁き返した。 「金が欲しいわけではない。奥様の素晴しい|蜜《みつ》の味を、もう一度味わわせてもらいたいんです」 「…………」 「いかがでしょう?」 「優雅な|脅迫者《きょうはくしゃ》ね。分かったわ。本当のことを言うと、わたしもあなたに参ってしまったの。思いだしただけで|濡《ぬ》れてしまう」  淳子は新城の|腿《もも》に手を滑らせた。 「マリオがアタマにきてぶっつけたりしたら困る」 「この前は、マリオが無礼を働いたんですってね。ごめんなさい」 「今夜、ゆっくり会ってくださいますね?」 「|勿《もち》|論《ろん》よ。朝の|陽《ひ》が昇るまで勘弁しないから覚悟していらっしゃい」  淳子は新城を色っぽく|睨《にら》んだ。新城がスカートのなかをさぐってみると、バターを溶かしたようになっていた。 「外で会ってくれますね? この前はマリオは素手だったけど、今度はナイフかピストルを振りまわすかも知れない」  新城は|囁《ささや》いた。 「マリオには休暇をとらせるわ」 「駄目ですよ。|奴《やつ》は|嫉《しっ》|妬《と》に狂って、ムッシュー・岸村に密告するかも知れない」 「それもそうね」 「ですから今夜十一時頃、マリオに気づかれないようにして脱け出てください。パトー・アパルトマンの裏通りにある花屋の前で私は待っています」 「分かったわ。何とかやってみるわ」 「使用人の誰にも見られないようにしたほうがいいですよ」 「スリルがあるのって大好き」 「じゃあ、約束ですよ」  新城は淳子の小指に自分の小指をからませた。今夜は淳子にとって、この世の最後の夜になるのだ。  パトー・アパルトマンに戻った新城は荷作りした。淳子が呼んでくれたハイヤーでホテル・フィリッツに行く。  そこでハイヤーから降りたが、新城は部屋をとらなかった。タクシーに乗った。タクシーを三台乗り替え、遠廻りして、サンジェルマン大通りとセーヌ川に|挟《はさ》まれた自分のアパルトマンに戻る。  午後三時近くであった。新城は、ローマのホテル・インペリアルに電話を入れ、そこのコンコルジュに、 「やあ、リコ。返事が遅くなった。この前の日本の俳優を案内する件、こっちはオーケイだ。|奴《やっこ》さんは、いつそっちに着くんだい?」  と、言う。 「そいつはよかった。|奴《やつ》の撮影のアップが遅れとるんで、到着のスケジュールがのびて、四日後になるとかいうことだ。それでも構わないかい?」  リコは言った。 「困ったな」 「そのかわり、案内料はうんとはずむそうだ。あんたがローマに来るときの往復キップは、アリタリアの事務所に行ったら、いつでも受取れるようにしておくよ」 「分かった。世話になったな」  新城は電話を切った。  それから、黒ミサ・パーティの主催者に再び電話を入れると、隠語で細かな打合わせをした。  夜にそなえて、睡眠薬をコニャックで胃に落としこみ、ぐっすりと眠る。その彫りが深い寝顔には、邪悪な微笑が刻みこまれていた。  八時に、目覚し時計が鳴るより早く、頼んでおいたアパートのコンセルジュのアンリがドアをノックした。 「有難う」  まだ|朦《もう》|朧《ろう》とした頭を平手で|叩《たた》きながら起上った新城は怒鳴った。  アンリは、マスター・キーでドアを開けて入ってくる。黒褐色になった|仔《こ》|牛《うし》の|腿《もも》の|燻《くん》|製《せい》を一本とフォア・グラの|壜《びん》|詰《づ》めを三個、それにオレンジ一キロとボルドーの赤を抱えている。新城が買いにやらせてあったのだ。  素っ裸のままベッドを降りた新城は、チップを含めて百フランをアンリにやった。アンリは、|皺《しわ》だらけの顔を笑いでさらに皺を深めて引きさがる。  新城は熱いシャワーと冷たいシャワーを交互に浴びて頭をすっきりとさせた。四キロほどある燻製を丸かじりする。ボルドーの赤をラッパ飲みした。  さすがの新城も、骨のまわりの肉を一キロほど残した。そいつを冷蔵庫に放りこみ、身づくろいした新城は、アパートを出る。オレンジの紙袋を抱え、ワルサーPPKの三十二口径自動|拳銃《けんじゅう》を入れた予備弾倉ポケット付きのホルスターを|腋《わき》の下に|吊《つ》り、ズボンのポケットにはアイノックスの|刃《は》|渡《わた》り十センチの飛びだしナイフを突っこんでいる。フランスでは、ほかの文明国と同様に、拳銃も飛びだしナイフも銃砲店で手に入る。  オレンジをかじりながらブラブラと歩いた新城は、パレ大通りの裏の教会の塀に沿って路上駐車している車のうちから、ポルシェ九一一Eに|狙《ねら》いをつけた。  手袋をつける。背広の|襟《えり》のなかに隠してあった針金でドアを開く。イグニッションとバッテリーをジタンのタバコの銀紙をよったもので直結にする。  燃料ゲージは、ほぼ満タンであることを示した。ゆるい坂道なので、ギアをニュートラルにして押す。  時速十キロほどになったところで運転席に跳び乗る。二十キロほどになったところでギアをセカンドに入れ、慎重にクラッチをつなぐ。ガクンとエンジン・ブレーキが掛かり、車速は落ちた。だが、次の瞬間、エンジンに生命がかよった。新城は素早くギアをニュートラルにし、エンジンを空ぶかしさせる。  エンストの|怖《おそ》れがなくなったところで、新城はギアをローに入れ替え、大通りに車を向けた。  淳子と約束した“ソレール”という花屋は閉まっていた。その前にポルシェを|停《と》めた新城はエンジンを切らずに待つ。  三十分ほどして、黒っぽいエナメルのコートとパンタロン姿の淳子が、サン・グラスを掛け、歩いて花屋に近づいた。  新城もサン・グラスを掛けた。車から降りて軽く手を挙げる。淳子のために助手席のドアを開いた。 「これ、あなたの車? スリルがあったわ」  走りだしたポルシェのなかで淳子は|喘《あえ》ぐように言った。顔が|蒼《あお》ざめている。そして新城はバック・ミラーに、尾行してくる二台の車をとらえていた。     ブラック・ミサ      1  尾行してくる車の一台は、オープンにしたトライアンフTR5、もう一台はシヴォレー・コルヴェット・スチングレイ・スポーツ・クーペであった。  しかし新城は、わざとその二台に気付かない振りをし、助手席の松平淳子に、 「来てくださったとは夢のようですよ」  と、|囁《ささや》きながら、右手をシフト・レヴァーから放して抱き寄せ、唇を合わせると、舌をからませる。  そうしながら、薄目を開けてバック・ミラーを見ると、淳子が引きつったような表情でうしろから来る二台の車を盗み見ているのが見えた。  新城が淳子から離れると、淳子はあわてて|瞼《まぶた》を閉じ、真に迫った|溜《ため》|息《いき》をついた。 「だって、あなたの体が忘れられないんですもの」  と|囁《ささや》く。新城はフォンテーヌブローのほうに向けてゆっくりとポルシェ九一一Eを走らせた。二台の車は、ポルシェを逃さない程度の距離を保って|尾《つ》|行《け》てくる。街中では、どの車もスモール・ライトだ。  国道七号に入り郊外に出ると、新城はヘッド・ライトをつけた。その車も、フランス車独特の黄色いライトに取替えられてあった。  新城は百三十キロまでスピードを上げてみた。二台の車——トライアンフが先だ——は、やはり同じぐらいのスピードに上げ、二百メーターほどうしろから迫ってくる。  やがて、道の左右は田園風景になった。日本とちがって|田舎《いなか》にはほとんど人影は無く、しかも歩道が完備しているから、飛ばすには楽だ。  新城は五速から四速にシフト・ダウンし、思いきりアクセルを踏んだ。トライアンフTR5は、見る見る引き離される。  それを見たコルヴェット・スチングレイは猛然と加速した。七リッター級のエンジンをつけているらしく、大馬力に物を言わせ、TR5を抜くと、——五速にシフト・アップして二百までスピードを上げたポルシェに迫ってくる。  しかし、それから先は、空気抵抗のためにポルシェとの差はなかなか縮まらない。行き交う車は少ないので、新城はさらにアクセルを踏む。  ポルシェのスピード・メーターは二百三十キロを示しているが、実際は二百十数キロというところであろう。淳子は、 「やめて! 死ぬのは嫌!」  と、ヒステリックな金切声をあげて、ハンドルを|掴《つか》もうとした。新城は、それを振り払う。  前方左手に小さな森が見えた。セーヌ川のほうに向かう間道がその森を抜けている。アクセルから足を浮かせた新城は、思いきりブレーキを踏みながら、ヒール・アンド・トウでシフト・ダウンする。  コルヴェットは、追突しそうに迫ってきた。淳子は、前のめりになる重力に耐えながら、首をうしろに振り向けて悲鳴をあげる。  新城は左側の対向車線にハンドルを切ってコルヴェットをやりすごそうとした。しかし、コルヴェットも、鋭く左に移る。アメ車に珍しく後輪も独立式サスペンションを採用しているので、ロード・ホールディングもかなり良い。  新城は右にハンドルを切り直した。ポルシェはダブル・ローリングのせいで|蛇《だ》|行《こう》しはじめる。カウンターを当て、ハーフ・アクセルでスピンを防ぐポルシェのうしろで、やはり右の車線に戻ったコルヴェットが、派手にクルクルと|廻《まわ》りだした。  右の路肩に車輪をはみださせて、やっとスピンをくい止めた新城は、森のなかの間道に向けて車を突っこませた。車の|尻《しり》がザーッと流れる。  二回転半スピンしたコルヴェットは再び追いかけてきた。タイヤから煙を吐きながら左回りに間道に突っこむ。  そのコルヴェットの助手席の男が車窓から上半身を乗りだした。短機関銃をすでに四百メーターほど離れたポルシェに向ける。サン・グラスを掛けていた。  その短機関銃は、フランス製MASであった。コルヴェットは再びポルシェとの間隙を縮める。  短機関銃が毒々しい炎を舌なめずりした。たちまちのうちに三十連弾倉の中身を吐き散らしたが、数発がポルシェのボディにくいこんだだけだ。  しかも、MASの使用弾は七・六五ミリの三十二口径コルト|自動拳銃弾《エイ・シービイ》を少し強力にした程度の、短機関銃としては弱装弾であったので、ボディを貫いた程度で、エンジン部や新城たちに被害を与えるまでにはいたらなかった。  だが新城は、このままではまずいことになることを知っていた。左手でハンドルを押えながら、左|腋《わき》のホルスターからワルサーPPKの自動|装《そう》|填《てん》式拳銃を抜き、|撃《げき》|鉄《てつ》に親指を掛ける。  その右手に、悲鳴をあげ続けていた淳子が|噛《か》みつこうとした。新城は|肘《ひじ》で淳子の|顎《あご》を突きあげ、意識を|朦《もう》|朧《ろう》とさせる。親指で撃鉄を起こした。  新城は再び急激にスピードを殺し、間道の左側の木立ちがまばらになったあたりに向けて、直角に車首を回した。  弾倉を替えたコルヴェット・クーペの助手席の男は再び短機関銃を掃射したが、フロント・ウインドウが邪魔になってうまくポルシェに命中させることが出来ない。新城の左手の指がもげそうな激しいショックを伝えながら、ポルシェは歩道を乗り越えた。|灌《かん》|木《ぼく》をへし折りながら森のなかに突っこんでいく。引っくり返りそうにジャンプし、着地したときに後輪のタイヤは鋭い切り株に裂かれて|炸裂《バースト》した。  ポルシェは、やっと横転することも無く|停《と》まった。ショックで淳子は気絶し、ぐったりとなっている。  その淳子を助手席の床に手荒く押しこめた新城は、車から転げ降りた。大きく開いたドアの陰に|蹲《うずくま》る。車のほかに|楯《たて》にするものはないかと、あたりを見回す。  間道に急停車したコルヴェットから、助手席の短機関銃の男と、運転席の|拳銃《けんじゅう》を握った男が跳び降りた。  MAS短機関銃の男は掃射した。|停《と》まっているポルシェに二十数発がくいこむ。ドアを貫いた一発は、勢いを失い、新城の胸の服地に当たったところでポロリと落ちる。  新城は短機関銃の弾倉が尽きるのを待った。  その時がきた。新城は素早く立上り、ザウエル拳銃を乱射してくる運転席の男に、右手のワルサーPPKから一発くらわせる。  胸の真ん中に三十二口径弾を射ちこまれたその男は、両足を跳ねあげながら|仰《あお》|向《む》けに倒れた。  薄笑いを浮かべた新城は、あわてて腰の弾倉帯につけた予備弾倉を引き抜こうとしている短機関銃の男の右腕に、ゆっくりとワルサーPPKの|狙《ねら》いをつけた。  その男は、発狂したような声をあげた。新城は引金を絞る。命中であった。  その男は抜きかけていた予備弾倉を落とし、左手の短機関銃を放りだし、射たれた傷口に|狼《おおかみ》のように|噛《か》みついた。  新城はゆっくりと、その男の両|膝《ひざ》の皿を射ち抜いた。男は祈るような格好で両膝をつき横に転がろうとする。新城はそいつの左腕の|肘《ひじ》を射ち抜いた。  そのとき、タイヤの悲鳴をきしませながら、遅れていたトライアンフTR5が近づいてきた。  新城は左方十メーターほどのところにある太い木のまわりの、密生した|灌《かん》|木《ぼく》のなかに、イバラを防ぐために両手で顔を|覆《おお》いながらもぐりこんだ。  向こう側が|透《す》けて見える位置で|停《と》まり、|腹《はら》|這《ば》いになったまま、左手でホルスターの革ポケットに入っている予備弾倉を取出す。  TR5は、急ブレーキをきしませコルヴェットのすぐうしろに急停止した。ドアを跳び越えて、二人の男が降りる。  二人とも、米軍の旧制式銃の一つであった|M2《エム・ツウ》カービンを腰だめにしていた。三十連のバナナ弾倉がついている。  背の高いほうが、フル・オートにしたカービンをポルシェに向けて、射ちまくった。  しかし、銃が軽すぎる上に遊底の回転速度が高すぎるためにカービンは跳ね、五発に一発の割りぐらいでしか当たらない。男はセミ・オートに切替え、|狙《ねら》い射ちをはじめた。  ポルシェの窓ガラスは粉々になり、リア・エンジンは破壊される。TR5の向う側に跳び降りていた背の低い男のほうも、森のなかに移ってきて|狙《そ》|撃《げき》に加わった。  新城の反撃がないことを知り、二人の男は狙撃を中断した。残忍な笑いを浮かべてポルシェのほうに歩み寄る。  それを待っていた新城は、右腕をのばし、ワルサーPPKの引金を二度絞った。三十メーターほどの距離であったから、|外《はず》れっこなかった。  二人は|胸腔《きょうこう》を銃弾に貫かれ、キリキリ舞いをしながらブッ倒れた。|爪《つめ》で地面を|掻《か》きむしる。  ワルサーPPKの弾倉は八連であるから、新城の拳銃には薬室に一発残っているが、新城は要心深く、空になった弾倉を予備弾倉と取替えた。薬室に一発、弾倉に八発で九連となる。      2  それから新城は、しばらくのあいだ待った。  はじめに胸の真ん中を射たれた男は、ぐったりとしたまま動かなかった。あとの三人は苦悶している。  茂みのなかから|這《は》いだした新城は、|残《ざん》|骸《がい》のようになったポルシェに近づいた。助手席の床に押しこめた淳子を調べてみた。  淳子は気絶したままだ。しかし、被弾はしてない。しばらく気絶から覚めないように淳子の頭を|銃把《じゅうは》で殴りつけておいて、新城は倒れている男たちのほうに足を向けた。  それぞれの銃を拾って、離れたところに投げる。カービンの二人も短機関銃の男も、背広の下に|拳銃《けんじゅう》を隠していた。  うまい具合に、どの拳銃も三十二口径ACPの実包を使用する拳銃であった。コルト三十二オートマチックやベレッタ・ピューマやザウエルなどだ。  それらの拳銃の弾倉から抜いた実包を、空になった自分のワルサーPPKの予備弾倉に|填《つ》め替えたり、ポケットに移したり、彼等が身につけていた弾薬サックを奪ったりする。  短機関銃の男は、血の塊りを口から吐きだし、死の|痙《けい》|攣《れん》をはじめた。新城は、まだ十個のポケットに七つの弾倉が残っている弾倉帯を奪った。  短機関銃も奪い、三十メーターほど離れた木の切り株に腰だめで三点射しながら試射してみた。着弾的をはっきりと|掴《つか》むまでには二十発以上を要した。  生残っている三人を引きずって一と所に集めた新城は、彼等の服をナイフで裂いて脱がせた。脱がせた服を三人の頭のあいだに置きライターの火を移した。  燃えあがった服の炎は三人の髪に燃え移ろうとした。三人は悲鳴をあげ、転がって逃げようとする。 「動くと|蜂《はち》の巣にしてやるぜ!」  新城は服の炎のなかに、短機関銃弾を五、六発射ちこんだ。派手に火の粉が飛び散る。 「助けてくれ!」  コルヴェットの助手席にいた男が悲痛な声をたてた。褐色の皮膚とキツネのような顔を持っていた。  先ほど調べた運転免許証から、その男の名がアルジェリア生まれのジャック・マルローであるということを新城は知っている。 「どうして|俺《おれ》が貴様を助ける義務がある?」  新城は|嘲《あざ》|笑《わら》った。 「やめてくれ、お願いだ」  ジャックは両手を握りしめて祈る格好をした。 「貴様たち、俺が誰なのか知って襲ったんだな?」  新城は三人のそれぞれに向けて、ゆっくりと短機関銃の銃口を回した。 「殺せ! ドジを踏んだ俺たちは、生きては帰れねえ」  やはり運転免許証から、フランソワ・ベッケルという名と新城が知った、トライアンフの運転をしていた一メーター九十近い大男が|呻《うめ》いた。丸い顔に太い|口《くち》|髭《ひげ》をはやしている。 「イキがるのはよしたほうがいいぜ、そんなに死にたいんなら望み通りにしてやる。いまここでな」  新城はMAS短機関銃の銃口をフランソワに向けた。 「ああ、殺せ。どうとでもしやがれ!」  フランソワは巨体を震わせながらわめいた。  途端に、新城が腰だめにしている短機関銃が、バーッ、バーッ、バーッ……と三度、点射の軽快な発射音を響かせた。  フランソワの胸や背中にバネがついているかのように、その巨体は着弾の衝撃で跳ねた。上半身が|挽《ひき》|肉《にく》のようになったフランソワは死の国へと送りこまれる。 「やめてくれ!」  フランコというトライアンフの助手席にいた細く小柄な男が小便の湯気をたてながら哀願した。 「二人とも、俺がどんな男か分かったか? 分かったら、どうして俺を|殺《や》ろうとしたかもしゃべってもらおう」  新城は命じた。 「|傭《やと》われたんだ」  フランコは|喘《あえ》いだ。 「誰に?」 「言わねえ。しゃべったと分かったら消される!」 「じゃあ、かわりに、いま消してやる」 「分かった、分かったからやめてくれ。しゃべる!」 「よせ」  ジャックが叫んだ。 「じゃあ、貴様が死ぬんだ」  新城は銃口をジャックに向けた。 「|奴《やつ》を片付けてくれ。そしたら、俺は安心してしゃべることが出来る。そうでないと、奴は俺を密告する」  フランコは|呻《うめ》いた。 「何だと、この裏切者!……奴を|殺《や》ってくれ。そしたら俺はしゃべる」  ジャックは、フランコに|掴《つか》みかかろうとあがいた。 「いいから、いいから。俺はお前たち二人からは、何も|尋《き》きだせなかったことにしてやる。だから、安心してしゃべるんだ」 「ムッシュー・アルベルト・エルフェルドだ」  二人は、ほとんど同時に言った。 「そうか。あの野郎か」 「俺たちは、ムッシュー・エルフェルドに|傭《やと》われて……」 「いつも殺しを引受けてるのか?」 「…………」 「しゃべるんだ」 「分かった……そうなんだ……失敗したのははじめてだ」  フランコは唇を震わせた。 「俺についてエルフェルドの野郎は何と言った?」 「あんたを消せと、ただそれだけだ」 「マダム松平については?」 「やむをえないときには、あんたと一緒に消してもいい、と言った」 「そうか。今度の仕事には、ここにいる貴様たちのほかにも誰か加わってるのか?」 「分からねえ。助けてくれ。痛くてたまらねえ。|怖《こわ》い。気が狂いそうだ」 「じゃあ楽にしてやる」  新城は短機関銃を使い、二人の苦痛を永遠に取りのぞいてやった。空になった弾倉を機関部から抜いて、予備弾倉のうちの一個を挿入する。  男たちの四丁の|拳銃《けんじゅう》を上着やズボンのポケットに突っこみ、奪ってあったキーでコルヴェットのエンジンを掛けた。自動ミッション付きだ。  バックでそのコルヴェットを、森のなかのポルシェに近づける。コルヴェットから新城が降りてみると、淳子は意識を取戻し、走って逃げようとしていた。|裸足《はだし》だ。 「どうなさいました、マダム?」  短機関銃を腰だめにした新城は、ふてぶてしく笑った。  淳子は悪魔のような|形相《ぎょうそう》になっていた。立ちすくむと、無理やりに微笑を浮かべようとしたが、ただ顔が|歪《ゆが》んだだけであった。芸達者な淳子も、今回だけは勝手がちがうらしい。  新城は左手でその淳子を|掴《つか》むと、四つの死体がよく見える位置まで引きずった。 「ご感想は?」  と、|嘲《あざけ》るように一礼する。 「やめて!」  両手で顔を|覆《おお》った淳子は|嫌《いや》|々《いや》をした。 「ふざけるなよ。あいつらは、お前さんとエルフェルドが|傭《やと》った殺し屋だ」 「知らない。知らないわ、わたし……」 「そうか? じゃあ、この車で貴様を引きずってやる。ロープで貴様の両足をゆわえてな。貴様の顔の骨まですりむけるぜ」  新城は|狼《おおかみ》のような笑いを|頬《ほお》に走らせた。 「許して! わたしが悪かったのよ。でも、殺し屋を差し向けたのはバートの差し金……わたしは知らないわ」  淳子は|呻《うめ》いた。 「さあ、さあ。本当のことをしゃべるんだ。二た目と見られない顔と体にされたくなかったらな」  新城は冷たく命じた。      3 「あなたに|脅迫《きょうはく》されたことを、バートに電話でしゃべったの。そしたらバートは、しばらくしてから返事してきたわ。ビディ・パン・スケーノとも話しあって、あなたを消すことに決めた……と言うの。わたしは、そんなことやめて、と言ったのに、バートは聞いてくれなかった」 「そうかい。まあいい。ともかく、車に乗るんだ」  新城は淳子をコルヴェットの助手席に押しこめた。再び頭を殴りつけて気絶させる。車を森から出し、セーヌ川に沿った県道に向けた。  セーヌを渡り五キロほど行ったところに、かなりの広さの森があった。  森のなかに、高いレンガ塀で囲まれた広い屋敷がある。塀の上には、侵入者を防ぐ高圧電流を通した有刺鉄線が張りめぐらされていた。  新城は、その屋敷の正門の前で車を一時停止させると、ヘッド・ライトを点滅させた。五度短く、六度長くだ。  門が開いた。新城は車をゆっくりと門の内側に滑りこませた。門がうしろで閉じる。  前庭だけで十町歩はあった。自然のままの林のなかを、曲がりくねった細い道がついている。  その道を車で進んでいくと、突如として目の前が開け、千坪ほどの|芝《しば》|生《ふ》とそのうしろの|母《おも》|屋《や》が見える。母屋は、中世風の石造りであった。  芝生には十数台の車が|駐《と》まっていた。新城も芝生にコルヴェットを駐めた。短機関銃や四丁の|拳銃《けんじゅう》などは車のトランクのなかに仕舞う。自分の拳銃は身につけたままだ。  それから、|母《おも》|屋《や》の玄関の真っすぐ前の位置に立つ。  玄関のドアの上から強烈なライトがのびて新城の全身を包む。首実検が済むとライトは消えた。  新城は意識が|朦《もう》|朧《ろう》としている淳子をかついだ。淳子は失禁でパンタロンもストッキングも|濡《ぬ》らしているので、新城にとっては、あまり気持がいいものではない。  玄関ホールでは、|蛍《けい》|光《こう》塗料の白い|髑《どく》|髏《ろ》が浮きあがったように見える黒いガウンをまとった人物が待っていた。  胸には髑髏のネックレスの|鉤《かぎ》十字架を|吊《つ》り、目と鼻と口のあたりだけ開いた仮面をつけている。  仮面には|仔羊《こひつじ》のそれで作った悪魔の角が生えている。悪魔の黒ミサの大僧正役のルネ・ボーマンだ。 「遅かったな。みんな待っている」  ボーマンは、陰にこもったような声で言った。 「事情があったんだ。邪魔が入ったが片付けてきた」  新城は答えた。 「そうか。相手にトドメを刺したか?」 「|勿《もち》|論《ろん》」 「じゃあ結構。さっそくサバトの会場に案内しよう」  ボーマンは先にたって歩きだした。  玄関ホールの左側の部屋の大きなタンスのなかに、地下に通じる秘密の階段があった。  階段を降り、曲がりくねった地下の通路を行くと、突き当たりに|樫《かし》のドアがあった。ドアの上と左右に、モニターTVのカメラがある。  三重の樫のドアが開くと、そこが黒ミサの会場であった。怪奇な教会だ。“サバト”、すなわち満月のたびに行なわれる集会のほかに、年に数度行なわれる大集会にも使われ、|箒《ほうき》や|妖《よう》|怪《かい》や怪獣に乗って飛んでくる魔女たちの姿が描かれた絵をはじめ、壁には怪奇な絵が描きなぐってある。  そして広い会場の中央には、直径三メーターほどの、黒ビロードを掛けた低い円形の祭壇があり、そのまわりでは十三人の男女の会員が腰を降ろしていた。  彼等は仮面をつけてなかった。素っ裸の体に、黒いガウンをまとっている。抱きあいながらマリファナを吸っている。モグサ臭い香りが充満している。  待っている間に、彼等の血管にマリファナがかなり回っているようであった。体をゆらゆらとさせている。男たちのなかには政界の実力者もいるし、女たちのなかには巨大会社の社長夫人や貴婦人もいる。 「やっと|生《いけ》|贄《にえ》が登場だ」  歓声があがった。その地下室は完全防音になっていて、外には絶対に音が|漏《も》れない。  そのとき、黒い教会の突き当たりの|潜《くぐ》り戸が開き、大僧正と同じような|扮《ふん》|装《そう》ではあるが、段ちがいに|貫《かん》|禄《ろく》があるサタンの司祭のロジェ・フレイが、黒革の聖書のようなものを手にして入ってきた。  一方、大僧正のボーマンは、祭壇の近くに、|竜《りゅう》や黒バラの|入《いれ》|墨《ずみ》が彫られた人間の皮で張った|浴《よく》|槽《そう》を引っぱってきた。  その浴槽を祭壇の近くに引き寄せたボーマンは、直径一センチほどの太さの長い|釘《くぎ》を数本と生皮のロープ、それに悪魔を形どったハンマーを取出した。 「美しき悪魔の御名のもとに、ただ今から悪魔に|生《いけ》|贄《にえ》をささげる」  黒い司祭のロジェ・フレイは陰にこもった声で宣言した。  黒ミサ・パーティの会員たちは淳子に飛びかかった。淳子の着ているものを、引き千切る。意識を取戻した淳子は、悲鳴をあげながら逃げようとした。  しかし、大勢にかかられてはどうにもならない。淳子の体は皆に抱えあげられ、祭壇の上に|仰《あお》|向《む》けにさせられた。  まだ悲鳴をあげ続ける淳子の体は大の字に開かれ、両手首と両足首に生皮のロープが結ばれた。  大僧正のボーマンが、黒ビロードを張った祭壇の四|個《か》|所《しょ》に、太い|釘《くぎ》をハンマーで打ちこむ。  淳子の手首や足首に結ばれた生皮のロープはそれらの釘につながれた。 「何するの、畜生!」  淳子は日本語でわめいた。声をあげるごとに大きく開かれた花弁が動く。  会員たちはその祭壇を囲んで床に|坐《すわ》った。ボーマンは必死に暴れようとする淳子の乳首の上に、黄金で作った洗面器のように大きなカップを乗せた。重いので、淳子の乳首は横にねじれる。  大カップのなかには、どろりとした赤黒い液体が入っていた。 「畜生、人殺し!」  淳子は新城を見つけて|罵《ののし》った。 「おや、おや。そういう下品な口をきかれるかたとは知りませんでしたね」  新城は|嘲《あざ》|笑《わら》った。 「お前は誰なの! 本当は誰なの?」 「ご覧の通り、悪魔の使者ですよ」  新城は一礼した。 「助けて! 助けてくれたら、どんなことでもするわ」  淳子は震えながら涙をこぼした。 「その気になったら助けてやる。しばらくはどういうことになるか、じっくり味わうんだな」  新城は答えた。  悪魔の司祭は、マントの|裾《すそ》を開き、|隆々《りゅうりゅう》としたものを|剥《む》きだしにした。根元はひどく太く、先は細い。根元に逆十字架をぶらさげ、聖書のようなものを開いて祈りをあげる。  カソリックの|祈《き》|祷《とう》|書《しょ》を最後のほうから逆に読み、しかも“神”を“悪魔”、“善”を“悪”に読み替えているのだ。  悪魔の祈祷書が読み終えられると、司祭は淳子の腹の上に腰をおろした。淳子の胸の大きな黄金のカップを持ちあげ、赤黒くどろどろした液体を普通のコップ一杯分ほど飲む。  その液体は、ブドウ酒のなかに、幻想作用を起こさせるマンダラゲや朝鮮アサガオ、それにベラドンナやLSDなどを混ぜてあるのだ。  司祭は隆々とした男根で淳子の胸に逆十字架をなぞり、再び黄金カップを置いた。次いで大僧正が淳子の腹の上に腰を降ろし、黄金のカップから液体を飲んだ。  続いて会員たちが、次々に飲んだ。最後に新城は飲む|真《ま》|似《ね》をして、ほとんどをシャツのなかにこぼす。  会員たちは再び祭壇のまわりに|坐《すわ》りこんだ。司祭は金切声で|罵《ののし》る淳子と一つになった。  上半身を起こし、狂おしいリズムで別の|祈《き》|祷《とう》|書《しょ》を逆から読みあげる。  すでにマリファナの酔いが回っていた会員たちは、その悪魔の祈祷書が読み終えられ、司祭が身を外すと、死体に群がる|禿《はげ》|鷹《たか》のように淳子に襲いかかった。  歯をたてる者もいれば|舐《な》める者もあり、鋭い|爪《つめ》で引っ|掻《か》く者もある。  淳子は恐怖で発狂しかかっていた。得意のフランス語は出ず、日本語で、 「痛い……ギャーッ! 助けて……死ぬのは嫌!」  と、絶叫をあげ続ける。 「死にたくないか?」  新城は声を掛けた。二人が日本語で話をしても、その内容は、ほかの誰にも分からない。 「死ぬのは嫌! 助けて!」 「じゃあ、|俺《おれ》の尋ねることに正直に返事するんだ。沖や富田や貴様の亭主たちの隠し金は、バート・エルフェルドのI・O・T——インヴェスターズ・オーヴァーシーズ・トラスト——に運用を任せてある、というのは本当なんだな?」 「誰から聞いたの? あんたは本当は誰なの?」 「誰でもいい。死にたくなかったらしゃべるんだ。しゃべったら、この気が狂ったパーティをやめさせてやる」  新城は言った。 「痛い!……その通りよ。もとはスウィスの銀行に運用を任せてあったけど、今は大半をバートのI・O・Tに移したの、利子が段ちがいだから……殺される!」 「沖—富田派がI・O・Tに預けた金は幾らだ?」 「大体三億ドル」 「そうすると、一千億円というところか。やっぱし、田中が言った通りだな」 「助けて!」 「岸村はいくら預けてある?」 「二百万ドル」 「そうか。岸村のI・O・Tの証券はどこに隠してある?」 「スウィスの銀行の保全金庫に!」 「スウィスのどこの銀行だ?」 「クレジット・バンク・ド・ジュネーブ」 「金庫番号は?」 「七四二J五二……でも、岸村本人が行かないと絶対に開けてくれないの」 「…………」 「わたしなら開けられるわ。だから、助けて!」 「岸村でないと開けられない、と言ったじゃないか」 「岸村が死んだら、わたしが行っても開けてくれる。だから、わたしを生かしておいたほうが得よ!」 「|鍵《かぎ》は?」 「銀行が持っているわ。助けて!」  淳子は肉を|噛《か》み切られた苦痛に絶叫をあげて気絶した。  麻薬と幻覚剤で完全に狂ってしまった会員たちを、もう新城は|止《と》めることが出来なかった。  |凄《せい》|惨《さん》な地獄図が続けられ、やがて噛み砕かれて血を|啜《すす》られた淳子の死体は、人間の皮を張った|浴《よく》|槽《そう》に放りこまれ、|糞尿《ふんにょう》を浴びせられる。     刺 客      1  悪魔のパーティは午前四時に終わった。  客たちは、それぞれ自家用車で帰途につく。残った悪魔の司祭のロジェ・フレイ、大僧正のルネ・ボーマン、それに新城彰は、切り裂かれ、|噛《か》み砕かれ、その上に|穢《けが》された松平淳子の|残《ざん》|骸《がい》を、教会の裏庭の林のなかにある巨大なガラス箱のなかで、硫酸で処理した。  その作業が終わったときはすでに夜明け近かった。三人は、教会の地下の小部屋に戻るとコニャックやコーヒーを飲んだ。 「|俺《おれ》はアルベルト・エルフェルドに追われている」  新城は言った。 「I・O・Tのバート・エルフェルドか?」  仮面を脱いでいた司祭のロジェが|呟《つぶや》いた。年はまだ五十過ぎだが、髪は真っ白だ。顔にも|皺《しわ》が深い。 「そう。さっきの|生《いけ》|贄《にえ》は、バートの女の一人だ。亭主はいるが……」 「あの女の名前は分かってる。確か日本の女優だな。だけど、君が心配することはない。我々の仲間はフランスだけでも何百人もいる。ヨーロッパやアメリカ全体をあわすと、何千人もだ。客となると、数えきれないぐらいだ」 「…………」 「我々は客の秘密を握っている。客がチンピラならどうってことはないが、君も知っているように、ここの客だけでも法務大臣から検事局の局長までいる。彼等は私のロボットだ」  ロジェは言った。 「そうでしたな。それをあなたの口から聞いて安心しました」  新城は頭をさげた。 「追われたときに身をひそめておける|隠《かく》れ|家《が》を幾つか知っておくのも悪くないようだな。ルネ、名簿を持ってきてくれ」  司祭のロジェは言った。 「ここに乗ってきた車を替えないと。あれは、エルフェルドの部下から頂戴した車だ。プレートのナンバーから|奴《やつ》|等《ら》に分かってしまう」  新城は言った。 「分かった。車種は?」 「コルヴェット・スチングレイ・スポーツ・クーペ」 「そいつは目立ちすぎるな。ナンバー・プレートを取替えただけでは駄目だ。オンボロのルノーでよかったら使うか?」 「有難い。動きさえすれば何でもいい」  新城は答えた。 「分かっているだろうが、君と我々の関係を、君の口からは、誰にもしゃべることはならない」 「|勿《もち》|論《ろん》。たとえ口が裂けても、そんなことをするわけがない。|俺《おれ》は日本の男だ」 「サムライだな。君を信用しよう。ところで、いいものがある。今夜の|生《いけ》|贄《にえ》を連れてきてくれた礼にこの薬を進呈する。こいつは、南洋の毒草とインカの毒ジャガイモの芽のエキスを混ぜあわせて作った薬だ。こいつを飲むと、体力次第だが、三日から一週間のうちに発狂する。他人から見れば、その薬を飲まされて発狂した人間は正常に見えるのだが」 「そいつはいい」 「これだ」  ロジェは、ガウンの内ポケットから、緑色のカプセルを取出した。直径五ミリ、長さ一センチ五ミリほどだ。  カプセルの|蓋《ふた》をねじって開くと、透明なプラスチックのチューブが入っている。チューブの中身の液体も透明であった。 「無味無臭だから、コーヒーにでもスープにでも混ぜることが出来る」  ロジェは言った。 「まさか、このコーヒーには入ってないでしょうな?」  新城は笑った。 「怒るぞ」 「済まない。冗談だ。ところで、普通の体格の男に対して|効《き》き目がある量は?」 「チューブの三分の二だ。念のために一本全部を使えば失敗することはない。君にとって役に立つことがあるだろう」  ロジェはカプセルの|蓋《ふた》を閉じた。新城にそれを渡す。 「有難い。礼の言いようもない」  新城は頭をさげた。  そのとき、羊皮紙で作られた分厚い名簿を持ってルネ・ボーマンが戻ってきた。 「メモ帳を持っているか?」  と、|尋《たず》ねる。 「ああ」  新城は内ポケットをさぐった。左手でボール・ペンを出す。 「ここには、何千という隠れ場所がしるされているが、それをみんな君に教えるわけにはいかん。だから、私が読みあげるやつだけをメモしてくれ」  ルネから名簿を受取ったロジェは言った。 「|隠《かく》れ|家《が》に行ったとき、どう言えば入れてくれる? 合言葉でもあるのか?」  新城は尋ねた。 「合言葉だ。“サン・セヴァスチャンの夜、あなたにお会いしてから、私はずっと旅を続けてましたので”と言ってから、“ああ、ロジェ司祭が、あなたによろしくと言ってましたよ”と、付け加えるんだ」  ロジェは言った。  ルネが、フランス式のサンドウィッチ、つまり、細長いパリパリしたパンにチーズとレヴァー・ソーセージをはさんだやつを運んできた。それをかじったり、コーヒーを飲んだりしながら、新城はロジェが読みあげる名前と住所を書き写した。  外に出た時にはすでに|陽《ひ》が昇っていた。サラリーマンの朝のラッシュ・アワーの頃だ。  ルネがガレージのなかから、八年ほど前のモデルの、くたびれきって|錆《さび》だらけのルノー4CVを出してくる。  コルヴェットのトランク・ルームを開き、バートの部下たちから奪った短機関銃や、四丁の|拳銃《けんじゅう》などを取出した新城は、 「どれか必要なものは?」  と、ルネに尋ねた。 「いや、こっちにもたっぷり武器はある」  ルネは首を振った。  新城はキャンヴァス・カヴァーをもらい、それに武器を包んで助手席に置き、バート・エルフェルドの部下たちの別動隊の待伏せをくらったときにはいつでも射ち返せるようにした。  パリの市内に近づくにつれて車は混みはじめたが待伏せはなかった。彼等が待伏せしていたとしても、オンボロのルノーに乗っているのが新城とは気付かなかったのであろう……。  翌々日新城は、空港でエルフェルドの部下たちが待伏せしているに決まっているので、自分の愛車B・M・W二八〇〇CSを駆り、パリから南下してイタリーに向かう。  リヨン……アヴィニヨンを過ぎ、マルセーユで東に折れる。ほとんど|高速道路《オート・ルート》だ。ニースやモンテカルロの海岸道路を走り、マントンからイタリー領に入る。  ジェノヴァからヨーロッパ道路一号を南下したら距離的に近いが、それよりもトリノとミラノとそこを結ぶ三角点にあるアレッサンドリアから太陽道路に入ったほうが、距離的には遠くとも時間的には短い。  アウトストラーダ・デル・ソーレにはスピード制限がない。アレッサンドリアからローマまでの四百キロほどを、新城は二時間そこそこで飛ばした。抜かれたのは、フェラリとランボルギーニにだけだ。  しかし、千キロをはるかに越えるパリから来たので夜になっていた。新城がガイドすることになっている日本の映画スター、高木健次は、ローマの華やかな夜を代表する、ヴィア・ヴェニト、つまりヴィットリオ・ヴェニト通りに面したホテル・インペリアルに泊まることになっている。  そのヴェニト通りには、歩道にカフェ・テラスのテーブルが並んでいる。トップ・モードのファッションを見せびらかしながら芸能人や上流階級の女たちが、金と暇を持てあましたような男たちにエスコートされてそぞろ歩いている。  しかし、びっしりと路上駐車している横丁には|街娼《がいしょう》が立ち、裏通りのバーは、パリのピガールやモンパルナスなどと同じように、どの女も金で寝る。  新城は古めかしい外観の、超一流ホテル・インペリアルの裏通りに車を|駐《と》めた。ホテルの表に向かって歩くと、車の蔭から出た女たちが、 「遊ばない。わたし、|舐《な》めるの好きよ」 「わたしのほうが上手よ。前のほうでも、うしろのほうでも使わせてあげるわ」  などと下手な英語で声を掛ける。ほとんどが明るい色の髪に染めているが、大柄でアラブの血が濃そうな娘もいる。スペインや北アフリカからの出稼ぎだ。 「あとでな。いまはいそいでるんだ」  新城はローマ|訛《なま》りのイタリー語で言った。女たちのアネゴらしい三十女が、後輩たちを、 「駄目よ、あの男は、お仲間なのよ」  と、たしなめ、新城に、 「ノーキョーの団体がいたら回してよ」  と、言う。      2  ホテルのロビーでは、本物の貴婦人たちに混じって、高級パン助もソファに腰を降ろしていた。  新城はホール・ポーターと英語で書かれたホールの|脇《わき》のカウンターに近づいた。ずるがしこそうな顔をとぼけた表情が救っているコンコルジュ——客の雑用係でもあり、観劇やレストランや名所見物やお色気のある店などの相談に乗る係でもある。フランス語ではコンセルジュ——のリコが、満面に笑いを浮かべて出てきた。 「やあ、いま着いたのか?」  と、自分よりはるかに背が高い新城に抱きつく。ポルトガルほどではないがイタリー男は背が高くない。女のほうが高いことは珍しくない。ただし、ポルトガルの男がおおむね|痩《や》せこけているのに反し、ローマの男はがっちりしている。 「そうなんだ。車で」 「じゃあ、アリタリアの切符は取消さないとな」 「切符をキャンセルしたら、戻ってくる金の半分はあんたが取っといていいぜ」 「そうこなくちゃ。やっぱしあんたは世界一の友達だよ」  四十歳のリコは再び新城に抱きつく。 「|俺《おれ》の客は?」 「明日の昼過ぎに空港に着く。あんた、どこに泊まる? うちに泊まったら? でも、うちの娘や女房に手を出さないでくれよ」 「手を出したくなる、美人だからな。だから、あんたのところに泊まるのは遠慮しとこう」 「じゃあ、どこか安くて居心地のいい宿を見つけてやろう」  リコはホール・ポーターの部屋に引っこんで電話した。  リコが見つけてくれたのは、終着駅に近い一泊千五百円の小さなホテルだ。中庭に駐車場がついている。  ホテルに車を置いてから、疲れてはいても、数か月ぶりのローマの町を歩きまわる。ピッツァ屋に入り、無愛想な女主人から切ってもらったピッツァを紙にはさんで立食いする。パン|種《だね》ならぬ、イーストを混ぜられたピッツァ種は、電気洗濯機のような形の|桶《おけ》のなかで寝かされてふくれあがり、何段も棚がついた大きなオーブンで焼かれる。  客は兵隊たちや、身なりがよくない者が多かった。ビールと共に一キロのトマト・ピッツァを平らげた新城は、店を出て再び歩きはじめる。  尾行に気付いたのは三百メーターほど歩いてからであった。深夜の裏町に人通りはほとんど無く、ちっちゃなフィアットや、イタリー製のミニ・クーパーSなどが、タイヤから派手な悲鳴をあげてコーナリングしている。  尾行者は二十メーターほどの間隔を置いていた。新城はさり気なく右手の横丁に折れ、素早く靴を脱ぐとそれを手に持ち、細くて暗い露地に跳びこんだ。  靴をはき、左|腋《わき》の下のショールダー・ホルスターからワルサーPPKを抜く。右手を背中のうしろに回した。  |尾行《つけ》てきた男は若かった。ペンシル・ストライプの背広の|襟《えり》を立て、夜なのに濃いサン・グラスを掛けている。  鋭い顔付きだ。  突如として新城の足音と姿が消えたので、横丁で立ちどまり、きょろきょろする。 「俺に用か?」  |拳銃《けんじゅう》を背中のうしろに隠している新城は静かに声を掛けた。  男は顔に鳥肌をたてて新城のほうを見た。右手のあたりでピカッと光るものが出現した。|袖《そで》|口《ぐち》のなかに隠してあった|錐刀《スティレット》がバネ仕掛けで掌のなかに移ったのだ。  無言のまま男は新城に迫ってきた。 「よせよ、チンピラ」  新城は拳銃を見せてやった。銃口を男の胸に向けながら、安全装置を外し、親指で|撃《げき》|鉄《てつ》を起こす。  男は体を沈めながら、右手の錐刀を新城に投げようとした。素早いプロの動きだ。  しかし、新城も殺しのプロだ。男の胸の真ん中にワルサーから三十二口径弾を一発射ちこむ。露地に銃声が鋭く反響した。 |錐刀《スティレット》を落とし、男は|尻《しり》|餠《もち》をついた。苦悶しながらも、左の腋の下をさぐる。ショールダー・ホルスターの拳銃の|銃把《じゅうは》に右手が|捲《ま》きついた。 「はじめっからそいつを使えばよかったんだ。銃声を気にするからドジを踏んだんだ」  |嘲《あざ》|笑《わら》った新城は男の|眉《み》|間《けん》をブチ抜いた。射出口となった頭のうしろの骨が、脳ミソと共に吹っ飛ぶ。  新城は自分の拳銃を口にくわえ、|仰《あお》|向《む》けに倒れた死体に近寄った。自分の指紋を残さないように、ハンカチを使い、男のショールダーから、ベレッタ・ピューマの自動拳銃を抜いた。  その拳銃を死体に握らせ、空に向けて一発射たせる。  右の|袖《そで》|口《ぐち》を調べてみると、男は|錐刀《スティレット》のジュラルミン製の|鞘《さや》を右手にゴム・バンドで縛りつけていた。鞘にボタンがつき、そのボタンを押すと、内蔵されていたスプリングの掛け金が外れるようになっている。  その鞘と、石畳に落ちた錐刀を拾った新城は、男の胸ポケットから写真が|覗《のぞ》いていることに気付いた。  そいつを引っぱりだしてみる。新城のスナップ写真であった。エルフェルドのパーティに行ったときに|撮《と》られたもののようだ。  その写真を自分のポケットに移した新城は下唇を|噛《か》んだ。エルフェルドは殺し屋たちに新城の写真をバラまいているのだ。  まだ野次馬は集まってこなかった。ワルサーと|鞘《さや》に入れた錐刀を仕舞った新城は、露地を裏に抜け、次の通りも露地を抜けた。  少し横に歩いてから、路上駐車しているフィアット六〇〇のドアを、背広の|襟《えり》のなかに隠した針金で開く。ダッシュ・ボードの下で、イグニッションのコードと、バッテリーからきているコードを直結する。  スターターにつながっているコードを直結にしたコードに触れさすとエンジンが掛かった。  盗んだ車を終着駅と反対側のテヴェレ川のほうに向ける。ユーモラスなピーポ、ピーポというパトカーのサイレンの音が聞こえはじめた。  ヴェネチア広場に盗んだ車を乗り捨て指紋を消す。少し歩いてから、タクシーを拾い、ホテルに帰る。  刺客に要心し、ベッドに毛布で、自分が寝ているように見せかけた形を作った。ソファの|蔭《かげ》の床の上に自分は寝る。ソファのクッションを|枕《まくら》にする。  午前十時頃に目が覚めると体のあちこちが痛んだが、大したことはない。すぐに慣れるはずだ。  シャワーを浴び、|髭《ひげ》をそった新城は、左手のワイシャツの下に、バネが鞘に内蔵された錐刀をつけた。左|腋《わき》の下には、ワルサーが入ったショールダー・ホルスターを|吊《つ》る。その上に新しい背広をつけた。  ホテルの食堂で遅い朝食を済ますと、B・M・Wを駆って、レオナルド・ダヴィンチ空港に向かう。  途中、男性用のカツラ屋に寄り、褐色の長髪のカツラと|顎《あご》|髭《ひげ》、それに口髭を買う。  高木健次が乗った|日航機《ジャル》は、ほぼ定刻通りに到着した。ローマ駐在のジャルの接待係りに丁重に案内され、税関をフリー・パスで出てくる。  新城は送られてきた写真で知った、いかにもヤクザの若親分然とした高木に近づいた。日本ではヤクザ映画のスターとして有名な高木ではあるが、ヨーロッパでは無名なので、誰もサインをせがんだりはしない。 「はじめまして。私が夜のガイドです」  新城は手を差しだした。  それから一週間ほど、高木をイタリーの女優と寝させたり、貴婦人の乱チキ・パーティに連れていったりして、乱れに乱れさせた。高木は日本円で二百万を持ってきていた。  別れの|晩《ばん》|餐《さん》は、シシリア通りにある“セザリナ”というイタリー・オデンのレストランでとった。  まさにマカロニ調のオデンであった。肉の塊りや自家製のソーセージやハムなどのタネが、オデンの銅ナベを深くしたもののような容器のなかで泳いでいる。その容器は炭火が燃えるワゴンに乗せられて給仕によって客席に押してこられる。客は好きなものを指さして、皿に切り取ってもらうのだ。  ご満悦の高木から謝礼の七百ドルを受取った新城は、安ホテルで一眠りしてから、B・M・Wを駆ってパリに戻っていく。  高木を案内している間に、松平淳子が|行《ゆく》|方《え》不明になったという記事が、ローマの新聞に出ていた。亭主の岸村が、ストックホルムで白黒の実演を見物中に突如として苦しみだし、丸一日にわたってもがいたあげくに死人となったというニュースも、日航のローマ営業所に流れてきていた。  新城が憎悪のかぎりをこめた拳の一撃が計算通りに働いたのだ。だが、そんなことは西洋医学では分からないから、死因は悪質な肝臓病ということになったらしい。 |錐刀《スティレット》の男以後、エルフェルドの放った刺客は新城の前に現われてない。しかし要心した新城は、太陽道路に入る前に林のなかに車を|停《と》め、カツラと付け|髭《ひげ》をつけた。それにサン・グラスを掛けると、新城をよく知っている者でも、しばらくは新城とは分からないだろう。  朝早くパリに戻った新城は、自分のアパートから少し離れたところに車を駐め、カツラと付け髭を外した。  |拳銃《けんじゅう》を|携《たずさ》えてアパートの自室に入る。部屋が荒された形跡はなかった。しかし、要心してドアのうしろから|椅《い》|子《す》を重ね、新城は久しぶりのベッドでぐっすりと眠った。  夕方になって目を覚まし、コンセルジュのアンリを管理人室に訪ねる。イタリー|土産《みやげ》の皮財布をアンリと老妻にプレゼントし、 「何か、変ったことはなかったかい?」  と、尋ねる。 「電話が三本ほど……帰ってきたら返事を掛けてきてくれ、ということだ」  アンリは、メモ用紙に下手な字でなぐり書きしたものを新城に渡した。たまっていた新聞もだ。ロンドンとハンブルクとマドリードの、新城にガイドされたい日本人客を回すようにと契約しているホテルのホール・ポーター主任からだ。  アンリに礼を言って、新城は自分の部屋に戻った。  まず、ロンドンのホテル・グロブナーのホール・ポーター主任のアランを国際電話で呼ぶ。 「やあ、あんたか」  アランは言ったが、どこか不安気な声だ。 「どうした?」  新城は|尋《たず》ねた。 「いや電話したのは、東京から半月後にあるTVタレントが来ることになっていて、あんたに案内を頼みたい、ということなんだがね……実はな、あんたの写真を持ってチンピラがここにやってきた。あんたを知らないか、と|尋《き》きやがった。|勿《もち》|論《ろん》、俺は知らんと答えたが、何かあったのか?」  アランは言った。 「そうか……心配かけたな。ある組織と、ちょいとばかしイザコザがあったんだ。しばらくそっちに顔を出せないだろうが、|俺《おれ》の住所だけは教えないでくれよ」  新城は|眉《まゆ》をしかめながら言った。 「分かってるさ」 「頼りにしてるぜ。イザコザは俺が片をつけるが……」  新城は電話を切った。  マドリードのホテルも、ハンブルクのホテルも、ロンドンと同じようなことであった。新城は、エルフェルドの巨大な手がいたるところにのびていることを知る。  その夜おそくまでかかって新聞を読んだ新城はカツラと付け|髭《ひげ》をつけ、B・M・Wを駆って、陸路オランダのアムステルダムに向かった。  ベルギーとの国境近いリールまでヨーロッパ三号の高速道路をブッ飛ばす。国境の近くでカツラと付け髭を外した。  国境のゲートでは日本のパスポートを出したので、車のなかを調べられることはなかった。  国境を越えると、再びカツラと付け髭をつける。美しいベルギーの田園地帯をまずアントワープに向かう。そこを過ぎオランダ領に入るが、ベネルックス協定で検問所も税関も無い。  ブレタとユトレヒトを過ぎ、アムスに着いたのは夜明け近くであった。早朝からヒッピーたちがたむろしているダム広場と、飾り窓の女たちの店が並んでいる運河のあいだにあるペンション・アダムスに車を走らせる。  そこは中庭が駐車場になっていて、長期の泊り客に安く部屋を貸している。二流ホテルの半値ぐらいだ。  車幅よりわずかに広いだけの入口から、石畳の中庭の駐車場にB・M・W二八〇〇CSを突っこんだ新城は、一度表に出てから、ペンションのロビーのフロントに回る。  いかにもオランダ人らしい赤ら顔と赤っぽい髪の大男の主人が、カウンターのうしろの揺り|椅《い》|子《す》で眠りこけていた。  新城はカウンターの上の鈴を振った。しばらく鈴が鳴ってから、主人は目をこすりながら起上った。 「起こして済まないな。部屋は空いてるかい?」  新城は笑いながら|尋《たず》ねた。 「どのくらいご滞在で?」  主人は、カウンターの裏の棚のボルスの|壜《びん》からジンを一口飲んだ。 「さあ……とりあえず二週間。前払いでもいい」 「そいつはどうも。一日八ギルダー、シーツの取替えと掃除のサーヴィスが毎日加わったら二ギルダーずつ追加です」  主人は言った。 「シーツを取替えてもらうときにはこっちから言う。じゃあ、一日八ギルダーとして二週間分の百十二ギルダー、それに、あんたに朝早くから起きてもらった礼として八ギルダー、全部で百二十ギルダーを払っておこう」  新城は財布を出した。一ギルダーは約百円だ。 「どうも、どうも……」  主人は用紙を取出した。  金を払ってから、新城は用紙に、ポール・ガスタン、住所はパリ、国籍はフランスと書いた。パスポート・ナンバーも勝手な番号を書く。  前金を払ってもらったので、主人はパスポートを見せろ、とは言わなかった。 「四〇七号です」  と、新城にレシートとキーを渡すと、再び揺り|椅《い》|子《す》に腰を降ろし、たちまち眠りこむ。  新城はフロントの左側にある旧式のエレヴェーターで五階に昇った。一階はグランド・フロアーだから、五階が四百番台の部屋だ。  四〇七号室の部屋は狭く、ベッドもシングルだが、トイレとシャワーだけはついていた。  新城は、シャツ一枚になると、|拳銃《けんじゅう》を|枕《まくら》の下に突っこみ、スーツ・ケースからボルドーのワインとフォア・グラの|壜《びん》|詰《づ》め、それにフランスパンを取出した。  それで朝食を終えるとベッドに|仰《あお》|向《む》けになり、毛布をかぶった。毛布には情事の|匂《にお》いがしみこんでいる。  昼頃までうとうととした新城は、車をペンションに置いてダム広場に出た。  広場の真ん中の銅像の下の円形の壇には、数百人のヒッピーたちが集まっていた。日本人もいる。  裸になって日光浴したり、寝ころんだり、抱きあったりしている。一人の若い女のヒッピーが、素っ裸になって踊りはじめた。両手に鏡を持ち、群がってきた観光客たちが——その広場の|脇《わき》は観光バスの発着所になっている——写真を撮ろうとすると、日光を鏡で反射させ、その光をカメラのレンズに当てて妨害する。ほかのヒッピーたちも鏡を取出した。  新城は右側の中央駅に向けて、ダムラクの商店街の大通りを歩いた。路面電車が、郵便ポストをぶらさげて走っている。  春に浮かれた若者たちはハダシの者が多い。そんな光景を日本の代議士が視察すると、ヨーロッパは貧しくて、若い連中は靴を買うことも出来ない、と、日本のGNPを誇りながら、帰朝報告会で得意げにしゃべるのだ。  通りに面した教会の庭や窓のくぼみでは、ヒッピーのアヴェックが抱きあったまま動かない。  マリファナや麻薬について一番取締りがゆるやかだと言われるアムステルダムでは、マリファナ・パーティに開放している教会もあるし、中毒患者だという証明書があればヘロインを注射してくれる病院もある。  元首相の沖と一の子分の富田大蔵大臣の資金プールに使われている日本商工会館は、運河めぐりの遊覧船発着場の並びの中央あたりで左に折れて百五十メーターほど入ったところにあった。  白い塀に囲まれた大使館級の建物だ。新城はその斜め向かいにあるカフェの、路上のテーブルについた。途中で買ってきた新聞をひろげる。  エイダムのチーズ一皿とリンゴ酒を注文する。ゆっくりとそのシードルを飲み、新聞を読む振りをしながら、アムステルダム日本商工会館の門を盗み見る。  二時間ほど待ったとき、六リッターのメルツェデス・ベンツのプルマンが商工会館に近づいてきた。  オランダ人らしい若い男が、威風あたりを払うそのプルマンを運転していた。応接室のような後部シートで葉巻をくわえているネズミのような日本人が、写真で新城が知っている、館長の川上だ。沖の第二秘書でもあり、ヨーロッパにおける代理人でもある。  そのベンツは、正門の守衛が敬礼するなかを門内に消えたが、新城は若い運転手の顔のほうも網膜にしっかりと刻んだ。  一時間ほどして、川上を乗せたベンツのリムジーンは正門から出てきた。新城はカフェから出ると、タクシーでペンションに戻り、自分の車に乗る。  自分のB・M・Wを、先ほどのカフェの近くに|停《と》める。夜になってからベンツは戻ってきたが、川上は乗ってなかった。  その日は午後十時までB・M・Wのなかで見張ったが、若い運転手はもう出てこなかった。その時になって、その男は裏口から出たのでないかと気付く。  翌日の夕方、新城は商工会館の裏手で、B・M・Wのなかで待った。果して、午後八時頃、裏門からNSU・TTSが跳びだしてきた。  運転しているのは、川上の運転手だ。彼個人の車だろう。誰も乗せてない。新城は、百メーターほどの間隔を置いてそのNSUの小型車を尾行した。  ベンツを運転しているときとちがってイキがって飛ばすその男は、新城のB・M・Wに気付かないようだ。  そのNSUが着いたのは、クラブ・エルドラドであった。クラブとは名ばかりで、男が男を求め、女が女を求めて集まる店だ。無論、男と女がそこでハントしあっても構いはしないし、外人客にはマネジャーが|斡《あっ》|旋《せん》するが……。     再びアムスで      1  アムステルダム日本商工会館館長川上のお抱え運転手が、オーナー・ドライヴのNSU・TTSを路上駐車させた三台ほどうしろに、新城彰は自分のB・M・W二八〇〇CSを|駐《と》めた。  B・M・Wから降りると、NSUに近づく。川上の運転手の若いオランダ人は助手席のロックを掛け忘れているのが、プッシュ・ボタンが突きだしているのを見て分かる。  薄い手袋をつけてその車内へもぐりこんだ新城は、グリーン・カードを調べた。  NSUの名義人はヴィック・ホーガンとなっていた。住所は日本商工会館がある場所になっているから、運転手の名前はヴィックにちがいないだろう。  NSUから降り、|尻《しり》でドアを押して閉じた新城は、ヴィックが入ったクラブ・エルドラドに足を踏み入れた。  何度か来たことがあるから、勝手は分かっている。タバコの煙でかすみ、ニュー・ロックのリズムが爆発するその店内には、コの字型のカウンター式テーブルがついている。  客は百人を越え、立っている者も少なくない。薄化粧した男や、男のような格好をした女も多く、さらには一と目で商売女と分かる連中も混じっている。  ヴィックは、右側の壁ぎわに立って、音楽に合わせて右の指を鳴らし、足拍子をとりながら、獲物を求めている。左手に、オランダ・ビールを|壜《びん》のまま持っていた。  白いトロピカルの背広をつけ、白と黒のコンビネーションの靴をはいた、いかにも三下ヤクザといった格好の、ボーイ頭のレッドが、客たちのあいだを泳ぎまわって、飲みものの注文をさばいたり、男と女、男と男、女と女を取り持ったりしている。  レッドは|仇《あだ》|名《な》だ。仇名の通り、血を噴きそうに赤い顔と、これまた赤い髪を持っている。がっしりした体格だ。  新城は入ってから左側の、クロークを兼ねている引っこんだ場所に入った。|足《あし》|許《もと》には、アイス・キューブを詰めこんだポリ・バケツが五、六個並んでいる。  ボーイの一人が注文をとりに来た。 「済みませんね。立たせちゃって」  と、言う。 「構わないさ。ジンをビールで割ってきてくれ。ダブルだ」  新城は答えた。 「ジンはボルス、ビールはハイネッケンでいいですね?」 「ああ」  新城はキャバレロという両切りのオランダ・シガレットを、ダンヒル・クリスタル・フィルター入りのホールダーに差しこんでくわえた。  しばらくたってから、先ほどのボーイが、中ジョッキほどのグラスに注いだ、新城の注文の飲物を運んできた。この店はキャッシュ・オン・デリヴァリー・システムだから、新城は金を払ってそれを受取る。  ちびりちびりと飲みながら、ヴィックのほうを盗み見る。  ヴィックはホモ・セクシュアリストのようであった。薄化粧した男たちに熱っぽい視線を送っていたが、化粧はしてないが、骨細の美少年がカウンターでビールを飲んでいるのに目をつけ、その背後に回りこむ。  髪と|瞳《ひとみ》が黒い美少年の肩に手を掛け、耳もとで熱っぽく|囁《ささや》きはじめる。  そのときボーイ頭のレッドが、クロークのほうに氷が入ったバケツを取りに来た。カツラと付け|髭《ひげ》の新城を見て、不審気な表情になった。  新城は素知らぬ顔をしようとした。しかしレッドは客商売だけに、新城だと見破り、 「あんただったの? どうしたの、そんな格好をして?」  と、言う。  新城は唇に指を当て、 「ちょっと事情があってな。こんな格好をしているのが|俺《おれ》だとは、誰にも言ってくれるなよ」  と、十ギルダー札をレッドのポケットに|捩《ね》じこんだ。 「口が固いのが、あたしの取り|柄《え》ですがね……ははん、分かった。誰かを|尾《つ》|行《け》てるのね?」  レッドはウインクした。こんなごつい顔と体なのに、ホモで女役をやるのだ。 「そうはっきり言うなよ。ところで、あの|可《か》|愛《わい》い少年は誰なんだ?」  新城はヴィックが口説いている美少年を顎で示した。  新城の視線を目で追ったレッドは身をよじった。 「あら、あんた、あの趣味があったの? 知らなかったわ。あこがれてたのよ。一度ゆっくり付き合って」  と、舌なめずりする。 「よせよ。仕事がからんでるんだ」 「じゃあ、あんたが案内する日本人で、あの子のような美少年を欲しがっている男がいる、というわけ?」 「そういうことかな」 「あの子はドミトリー・カラマリス……あんなに若そうに見えても、本当の年は二十なの、名前からも分かるように、ギリシア人よ。貧乏な国だから、小さいとき、ろくにご飯も食べられなかったので、あんなに細っそりとしているのね。あの子は十四歳の頃から貨物船に乗りはじめて……あれは十六歳のときだったかな、あの子が乗組んでたギリシア船がアムスの港に入ったとき、アムスの貿易商で、ジョセフ・ド・ハーンというゲイの道では有名な金持ちに|惚《ほ》れられたのよ」 「…………」 「ドミトリーはその貿易商に、アムスの郊外に一軒家を買ってもらって囲われたの。去年その貿易商が死んでから、かなりの遺産を手に入れた。それからは、商売ではなくて、道楽で男をあさっているというわけよ」  レッドは言った。 「いまドミトリーを|口《く》|説《ど》いている|奴《やつ》は誰なのか知ってるかい?」 「さあ……よくこの店に来るけど、|尋《き》いたことないのよ」  レッドは肩をすくめた。 「ドミトリーはどこに住んでいる?」  新城は尋ねた。 「アイセル湖沿いに北東に、ここから二十五キロほど行ったところよ」 「と、言うと、フォーレンダムやマルケンとは反対のほうだな?」 「そうなの。シュイゼルよ」 「あそこか。金持ちどもが住んでいるヒルフアサムから湖に寄ったところだな?」  新城は言った。 「ええ。湖の入江に面して建っている素敵な家だって、誘われた|男《ひと》が言っていたわ」 「有難う」 「本当に、一度ゆっくり付き合ってよ」  レッドはたくましい体をくねらせた。  やがて、ヴィックとドミトリーは、腕を組んで店を出た。  二人が出てから、少し間を置いて新城も店を出た。二人は、ヴィックのNSUの横で抱きあって|接《せっ》|吻《ぷん》しているところであった。  新城はさり気なく、自分のB・M・Wのほうに回る。ヴィックとドミトリーはNSUに乗りこんだ。  NSUはスタートする。新城はスモール・ライトだけをつけたB・M・Wを、時によっては百メーター、時によっては三百メーターぐらい離して|尾《つ》|行《け》ていく。  NSUはヨーロッパ道路三十五号に入った。右手でドミトリーを抱き、ドミトリーにギア・チェンジさせながら、ヴィックはかなり飛ばした。ときどき二人は唇を交わす。  やがてE三十五は無料の高速道路になった。NSUは百六十前後で走るが、そのあと五百メーターほどうしろから追うB・M・W二八〇〇CSにとって、その速度ではエンジンが|子《こ》|守《もり》|唄《うた》をうたっているようだ。  ムイデンのインターチェンジのあたりからは有名な古城が見えた。そこから七キロほど走ったところで高速道路は途切れる。  ナールデンのインターチェンジを降りたNSUは、E三十五を外れ、左側の県道に入った。牧歌的な光景が、真ん中に追越し車線をはさんだ三車線の県道のまわりにひろがっている。  インターを降りた新城は、NSUの二百メーターほど背後にB・M・Wを近づけた。ムイデンの村を過ぎ、漁港の右手の小さな|岬《みさき》の付け根の小高い丘にNSUは向かう。  舗装は切れ、砂利道だ。NSUは丘を越えて、その向うに姿を消した。ライトを消した新城は、低速で丘の上にB・M・Wを近づけてから道の|脇《わき》に|駐《と》める。  グローヴ・ボックスから、ストロボをつけ、広角レンズをつけたニコン・カメラを取出した新城は、車から降りた。  歩いて丘の上に登る。  丘の向うに、丘と|岬《みさき》にはさまれた入江があった。入江の向うに遠くかすむ黒い影はフレヴォランドの|中《なか》|州《す》であろう。  湖とは言っても実際は海であるアイセルは、かなり波が高いことが多い。しかし、入江は穏やかだ。  その入江に面して、|瀟洒《しょうしゃ》だが五十坪ほどもあるバンガロー風の建物が見える。建物の近くに、ほかの家は一軒もなかった。      2  入江には、その家のバンガローにつながった桟橋がつき、三十六フィート級のモーター・クルーザーと、小型のランナボウトがつながれている。確かにドミトリーは優雅な暮しをしているらしい。  新城はゆっくりと丘をくだっていった。ドミトリーの家のテラスから灯が流れ、入江のクルーザーを鈍く浮かびあがらせている。  その家に近づいた新城は、ガレージにヴィックのNSU・TTSのほか、ドミトリーのものらしい、メルツェデス・ベンツ二八〇〇SLも入っているのを見る。  そのガレージに入った新城は、左|腋《わき》の下のホルスターのワルサーPPKと、左腕に|留《と》めてあってバネ仕掛けで飛びだす|錐刀《スティレット》を点検する。  入江に張りだすような形のテラスでは、その奥の居間のステレオから流れるギリシアの民族音楽に合わせて、ドミトリーとヴィックが踊っているようだ。その音楽は、ポルトガルのファドと似て、哀調を帯びている。東洋的だ。そういえば、ポルトガルもギリシアも民族的には、ほとんど東洋人に近い。  新城は、横浜の横浜橋のギリシア・バーや、ロンドンのギリシア・バーを|想《おも》いだした。  横浜のギリシア・バーでは、小柄な船員たちが、|哀《かな》しいレコードに合わせ、肩を組んで踊る。飲むのは一番安いビール、食うものは、小イワシとイカの空揚げだ。  ロンドンのギリシア・バーでは、ギリシアの歌手が踊りながら歌い、それが上出来だと、客たちはテーブルに山と積みあげた皿をフロアに|叩《たた》きつけて割る。  そして、どちらのギリシア・バーにも共通しているのは、ホモの買い手を待つ美少年、美青年が、孤独と哀愁をたたえた黒い|瞳《ひとみ》を|虚《こ》|空《くう》に放っていることだ……。  レコードがやみ、ヴィックとドミトリーが室内に引っこんだ気配がした。  掌で|覆《おお》ってタバコを一本吸ってから、新城はテラスに忍び寄った。テラスに上る。  居間に二人の姿は見えなかった。寝室に消えたのだ。新城はしばらくのあいだ、居間のソファで時間を|潰《つぶ》す。  やがて、寝室と思えるほうから、二人の若者が快感に耐えかねている声が聞こえてきた。新城はその部屋に忍び寄り、ドアをそっと開けてみる。  やはり寝室であった。ベッドでは、素っ裸になった細いドミトリー・カラマリスが|俯《うつぶ》せになり、その上に、これも素っ裸の、毛むくじゃらなヴィックがいる。  二人はクライマックスに近づきかけていた。寝室に身を滑りこませた新城は、後手でそっとドアを閉じる。  ベッドに近づいた新城は、ストロボを|閃《ひらめ》かせながらカメラのシャッターを押した。化石したようになった二人のスタイルを続けざまに|撮《と》りまくる。  接近して、男同士が一つになったあたりを撮る。 「何をしやがる!」  |茫《ぼう》|然《ぜん》としていたヴィックが跳びのこうとしたが、その途端にマキシマムに達し、|痙《けい》|攣《れん》しながらドミトリーにそそぐ。  新城はさらにその写真を撮った。|余《よ》|韻《いん》を楽しむことが出来ずに、無理やりに体を離したヴィックは、新城に殴りかかった。|包《ほう》|茎《けい》であった。 「騒ぐなよ」  新城は、ヴィックのまだ|怒《どち》|張《よう》したままのあたりを|蹴《け》った。  ヴィックは悲鳴をあげて抱え、床に転がった。 「助けてくれ! 折れた! 人殺し……」  と、もがく。  そのとき、|枕《まくら》に顔を埋めるようにしていたドミトリーが枕の下に右手を突っこむ。  左手にカメラを持った新城は右手を|腋《わき》の下のホルスターに走らせた。  ドミトリーが枕の下から短剣を引っぱり出したとき、新城はホルスターからワルサーPPKを抜いて笑っていた。 「やるかい?」  と、ドミトリーに銃口を向けて|撃《げき》|鉄《てつ》を親指で起こす。 「分かった、射つな!」  ドミトリーは短剣を床に捨て、両手を首のうしろで組んだ。  ヴィックは|呻《うめ》き続けている。新城はそのヴィックに向けて、 「面白い写真が撮れた。ポルノの店で売ると荒稼ぎが出来る。泥んこリアリズムの写真だから人気が出るぞ。ついでに、お前のオヤジやオフクロに送りつけてやろうか?」  と、言う。 「やめてくれ!」  ヴィックは泣き顔で上半身を起こした。 「次は貴様が女役だ。さあ、おっぱじめろ」  新城は冷酷に命じた。 「勘弁してくれ! 女役をやったことはないんだ……出来ない……」  ヴィックは|呻《うめ》いた。 「さあ、今夜はお前が男役だ。ヴィックのは、しばらく使いものにならないからな」  新城はドミトリーに命じた。 「ど、どうして|俺《おれ》の名を知っている?」  ヴィックは|喘《あえ》いだ。 「うるさい、はじめるんだ。引金を絞られるより、シャッターを押されるほうがいいだろう。ここはまわりの人家から遠いから、遠慮せずにハジキをブッ放せる」  新城は言った。 「…………」 「さあ、ぐずぐずするな、ドミトリー。ヴィックをベッドに引き上げるんだ」  新城は窓ガラスに向けて一発ブッ放す。ガラスを砕いて銃弾は飛び去る。  小さな悲鳴をあげながらヴィックはベッドに上った。脚をひろげる。ドミトリーは試みたが、 「無理だ。僕は男役じゃない」  と、|呻《うめ》く。  それでも構わずに写真をとってから、新城はベッドの反対側に回り、短剣を拾いあげた。|柄《え》も|鞘《さや》も銀製で、ダイヤやルビーをちりばめている。  カメラを棚に置いた新城は短剣を左手で抜き、鞘を捨てた。 「二人とも、根元からブッタ切ってやろうか?」  と、|威《い》|嚇《かく》する。 「許してくれ。どこまで痛めつけたら、気が済むんだ?」  ヴィックは泣きだした。 「写真を公表されたくなかったら、俺の|尋《たず》ねることに正直に答えるんだな」  新城は言った。 「何でもしゃべる!」 「お前さんは川上の運転手だな? アムステルダム日本商工会館の……」 「そうだ。あのネズミのような日本人に使われている。給料が抜群にいいからだ。メルツェデスのリムジーンを運転することも出来るし」  ヴィックは言った。 「川上の運転手になってからどれくらいになる?」  新城は尋ねた。 「もう三年になる」  ヴィックは答えた。 「そうか。じゃあ、川上のプライヴァシーについてもよく知ってるな?」 「だけど、ボスのプライヴァシーを|漏《も》らしたらクビにされる……契約で……」 「じゃあ、取引は終りだ。貴様が後生大事にその契約とやらを守っているあいだに、俺はさっき撮った写真を、オランダじゅうでなく、スウェーデンやデンマークのポルノグラフィ業者を通じて、世界中にばらまかせる。|勿《もち》|論《ろん》、さっきも言ったように、貴様の実家にも送る。貴様に姉や妹や兄弟がいるんなら、さぞかし写真を見て面白がることだろうな?」  新城は笑った。 「やめてくれ! そんなことをされたら、俺は自殺するほかない!」  ヴィックは震えた。 「じゃあ、しゃべるんだな?」 「しゃべるとも」 「そうか……さてと、川上の情婦は何人いるんだ?」 「五人だ。あんな、ネズミのような貧弱な体なのに、あのほうは絶倫なんだ」 「みんなを平等に|可《か》|愛《わい》がってるというわけか?」 「そうではない。今は映画女優のエリノア・シュルツに夢中なんだ」 「テレヴィで見たことがある女だな」  新城は|呟《つぶや》いた。美人でオランダでは名高いスターだ。出演する映画は青春物が多い。 「いま川上は、エリノアを、市内のラートハウス・シュトラートに面したアパートメントに住まわせている。五階全部を買い占めて……」  ヴィックは言った。      3 「そのアパートメントの名は?」  新城は尋ねた。 「ホイゼン・アパートメントだ」 「じゃあ、川上はよくそこで泊まるんだな?」 「そうだ。エリノアは年に二本の映画に出る。撮影に入るといそがしいが、休みのときは暇だ。今は休みだから、金曜、土曜、日曜は、ほとんどエリノアのところに入りびたっている」  ヴィックは答えた。 「そこに、ガードマンとか用心棒は住みこんでるのか?」 「何でそんなことを|尋《き》く?」 「商売の話で川上にぜひ会いたいんだ。正攻法じゃ|奴《やつ》は俺を相手にしてくれないだろうから、女と一緒のところに乗りこんで|度《ど》|肝《ぎも》を抜いてから話をつける」 「…………」 「いま俺がしゃべったことを貴様が川上にご注進したりして、奴が用心棒をあわてて|傭《やと》ったりしたら、貴様は俺に殺される」  新城は不敵に笑った。 「そんなこと奴に言うはずはない! 俺は川上が嫌いだ。金だけのつながりだ」 「エリノアのところの使用人は?」 「通いのコックと、住込みのメイドが二人いる。だけどメイド二人は住込みといっても、あのアパートメントは地下二階が、アパート内の各家庭のメイドの個室になってるんだ。だから二人のメイドは、夜は地下に引っこむ。川上とエリノアは、二人きりで誰にも遠慮なくいちゃつくことが出来るというわけだ」  ヴィックは|吐《は》きだすように言った。 「ところで、川上を乗せて、いろんな銀行を回ったことがあるだろう? 思いだせるだけの銀行の名を言ってくれ」 「その……このアムスでは、ミーズ・アンド・ホープ銀行、ピアソン銀行、アムロ……スウィスでは……ルクセンブルクでは……」  ヴィックはべらべらとしゃべりはじめた。  二時間ほど尋問を続けてから新城は、 「じゃあ二人とも分かったな? 今夜あったことは忘れるんだ。俺のことを誰かに、ひとことでもしゃべったら、二人とも殺す。俺が殺すと誓ったら、必ず死体が転がるんだ」  と、言う。二人の頭を|拳銃《けんじゅう》で殴りつけて気絶させ、ドミトリーのナイフを持って外に出る……。  それから三日がたった。日曜日だ。  ホイゼン・アパートメントは、王宮と西教会を結ぶラートハウス・シュトラートに面した十階建てのビルであった。  前庭は駐車場になっている。監視人が見張って、アパートメントの住人や訪問客の車のほかは追いだしている。  裏庭は高い|鉄《てっ》|柵《さく》に囲まれ、ちょっとした児童遊園地のようになっていた。アムスでは最高級のアパートだ。東京でなら、パレスとかマンションとかアビタシオンとか物々しい名前がついて、三DK程度の部屋でも五千万を越えるだろう。  午後八時、そのアパートと通りをへだてた斜め向かいにあるカフェ・テラスで見張り、エリノアと川上がハイヤーで外出から戻ってきたのを見た新城は、裏の通りに|駐《と》めてあったB・M・Wに乗りこんだ。  日航営業所に近いレストラン“ファイ・ツアリーケン”つまり“五匹の|蠅《はえ》”に回る。入口は狭く、そこが有名なレストランとは、案内人がいないとちょっと分からないぐらいだ。  店内は広いが、幾つにも部屋が分かれている。古めかしく重厚な構えだ。|椅《い》|子《す》には、その店を訪れた有名人の名を彫ったプレートが|貼《は》ってある。  カツラと付け|髭《ひげ》の新城なので、何度かその店を訪れた新城をマネジャーは見分けることが出来なかった。 「満席なので、おそれいりますが、バーでお待ちを」  と、言う。 「オーケイ」  新城は中二階のバーに移った。ほかにも待たされている客たちのうちの、ミニスカートの娘たちの脚線美を鑑賞しながらジン・ライムを三杯お替りする。  その時になってやっと給仕が呼びに来た。一階の左側の部屋の隅のテーブルに案内される。 「一人で悪いな」  新城は給仕にチップをはずんだ。  ブルゴーニュの赤で、ベネルックス三国で多いヴィールという|仔《こ》|牛《うし》料理を主とした夕食をとる。  隣のテーブルではオランダ系アメリカ人の一団が、デザート・コースに移っていた。ウェイターがケーキの上に日本製の花火を立て、それに火をつけて運ぶと大拍手が起こる。  新城は、今後の計画を練りながら、ゆっくりと夕食を済ませた。一度ペンション・アダムスに戻り、ベッドに横になる。  午前零時の目覚しのベルで起上り、再びB・M・Wを駆って、ホイゼン・アパートメントに向かった。|拳銃《けんじゅう》と|錐刀《スティレット》のほかに、カメラとドミトリーから奪った短剣も身につけている。  深夜なので、王宮の反対側の飾り窓の女の運河のほうはにぎわっていたが、ホイゼン・アパートのほうはひっそりとしていた。  そこの駐車場に、もう監視人はいなかったが、新城は裏通りに車を|駐《と》めた。薄い手袋をつけ、B・M・Wの屋根に登ると、そこからアパートの裏庭の|鉄《てっ》|柵《さく》の上に身を移し、裏庭に跳び降りる。着地の時、|膝《ひざ》を充分に曲げてショックを柔らげる。ラバー・ソールの靴をはいている。  非常階段を使い、五階の外に着いた。腰には、|鉤《かぎ》に分厚くビニールを|捲《ま》いたものをつけたロープの束を下げている。  そこの非常扉は、内側についたスウィッチを切ってから開かないことには、警報ベルがアパート全体に鳴りひびくことになっている|筈《はず》だ。  だから新城は、ロープを、五メーターほど離れた、五階のテラスの一つの手すりに向けて投げる。  ロープの先端の、ビニールで音を柔らげるようにした鉤は手すりに引っかかった。新城はそのロープを伝って、テラスに自分の体を引きずり上げた。  テラスに移ると、ロープを手すりから外し、捲いて腰に戻す。テラスの奥のフランス窓の内側は真っ暗だ。  しかし、下の常夜灯の鈍い光で、アルミ・サッシュのフランス窓のロック装置の位置が分かった。新城は|尻《しり》ポケットから、ガム・テープの一と巻きを取出した。  ロンソン・コメットに火をつけ、炎を一杯にのばす。その炎を、ガラスに当てた。しばらくして、ピーン……とかすかな音がして、ガラスに裂け目が走った。  ライターの炎を弱めてから消した新城は、ガム・テープで割れたガラスをはがした。割れ目から手を突っこんで、ロックを解いた。  フランス窓をそっと開き、カーテンを押し開いて、部屋に入った。  そこは屋内運動場になっていた。ピンポン、トランポリン、自転車式の|痩《そう》|身《しん》用機械、腹の脂肪をとるモーター・ベルトなどが、畳に直すと五十畳ほどのその部屋に置かれている。  そこはエリノアの専用室だろう。川上があれ以上|痩《や》せたのでは|骸《がい》|骨《こつ》になってしまう。  分厚いカーペットが敷かれた廊下に出た新城は、ヴィックから聞きだしてあった寝室に近づいた。  寝室は、書斎の隣だ。|女中《メ イ ド》たちは地下室で眠っている|筈《はず》だ。  寝室はエア・コンディショナーで二十五度に保たれていた。ベッドサイドのスタンドのシェードが柔らかな光を落とすなかに、巨大なダブル・ベッドがあった。  そこで、川上とエリノアは抱きあったまま眠っていた。二人とも一糸もまとっていない。|肋《ろっ》|骨《こつ》が浮き出た川上の皮膚には、もうところどころシミが現われている。  エリノアの髪は、滝が渦巻いたようなプラチナ・ブロンドであった。鼻は短く上向きに|反《そ》り、唇はぽってりとしている。オランダ娘らしく大柄で、川上より二十センチは背が高いと思われる体は、見事な彫像のようであった。  茂みの色はハニー・ブロンドだから、髪は染めたものではないだろう。上より下が濃いのが普通だから。もっとも、下も染めているのだと話は別だが。  新城は警報装置を目で捜してみた。ベッドの近くの壁にボタンがついている。  |椅《い》|子《す》をドアの内側に積んでバリケードとし、電話のコードを引き千切った新城は、ドミトリーから奪った短剣の刃をドライヴァー替りにし、警報装置のボタンを外した。  そのときエリノアが目を覚ました。悲鳴をあげる。短剣を銀の|鞘《さや》に収めた新城は、鞘ごとエリノアの口に突っこんだ。短剣を鞘ごとくわえた形になったエリノアのグリーンの|瞳《ひとみ》は|瞼《まぶた》の裏に隠れた。|痙《けい》|攣《れん》しながら意識を失う。  川上が目を覚まし、|枕《まくら》の下から二十五口径の平べったく小さなブローニング自動|拳銃《けんじゅう》を引っぱり出そうとした。  新城は、手首を折らぬように気をつけて手刀を|叩《たた》きつけ、ブローニングを奪った。それを点検してみて、薬室には|装《そう》|填《てん》されてないことを知る。遊底を引いて薬室に弾倉の実包を送りこんだ新城は、安全装置を掛けて|尻《しり》ポケットに突っこんだ。 「だ、誰だ!」  川上は英語でわめいた。体に似合わぬ長大なホースが縮みあがりながら、小便をたらたらと漏らす。 「貴様が川上だな」  新城は日本語で言った。  このアパートは豪華なだけに、防音壁になっていて、二十二口径ハイ・スピード弾よりも弱い二十五口径程度の銃声では、ほかの階の住人には聞こえないだろう。 「き、貴様、日本人か?」  川上は震えはじめた。  失神したエリノアが|鞘《さや》を|噛《か》んでいる短剣に手をのばす。跳びじさった新城は、左手でストロボ付きのカメラを出した。ストロボを|閃《ひらめ》かせてシャッターを押す。 「な、何をする!」  川上は短剣を抜いて振り上げた。 「さあ、女を殺すんだ。証拠写真を撮ってやるぜ」  再びシャッターを押した新城は、右手でブローニング〇・二五を尻ポケットから抜いた。 「嫌だと言うんなら、貴様にまずこのハジキから一発射ちこんでやる。貴様は|嫉《しっ》|妬《と》に狂い、女をその短剣でズタズタに切り裂いてから、このハジキで自殺を計った、ということになるんだ」 「貴様、気違いか!」 「俺は新城だ。俺の名前を聞いたことがあるだろう?」  新城は、|拳銃《けんじゅう》を握った右手で、カツラを外した。     |断《だん》 |崖《がい》      1 「新城なんて知らん!」  川上は|呻《うめ》いた。ベッドからあわてて降りる。素っ裸のままだ。 「これでもか?」  カツラを脱いでいた新城は、付け|髭《ひげ》もむしり取った。ソファに投げる。 「き……貴様は!」  川上は|喘《あえ》いだ。 「バート・エルフェルドから回ってきた手配写真で見たな?」 「貴様の本名は、新城というのか!」 「さあな。名前なんてどうでもいいが、その短剣で女を殺してもらおう」  新城は、ベッドで気絶しているエリノアに|顎《あご》をしゃくった。 「む、無茶なことを言うな!」  貧弱な体格の川上は、縮みあがったホースから、まだときどき小便をたらし、短剣を握った右手を小刻みに震わせている。 「女を殺さないと、貴様が死ぬ」  新城は、試射を兼ねて、川上の手前五十センチほどのあたりを|狙《ねら》って、ブローニング〇・二五の平べったい|拳銃《けんじゅう》から一発射ってみた。  部屋のなかに銃声がこもり、着弾は高く上り、川上の|足《あし》|許《もと》すれすれのあたりから|絨緞《じゅうたん》の毛が飛んだ。川上は、文字通り、 「ヒーッ……」  という悲鳴をあげて、|坐《すわ》りこみそうになる。 「次は貴様のチンポを吹っとばしてやる。それとも、あっさりと頭を吹っとばされたほうがいいか?」  さっきの一発で着弾点を知っているので、新城は川上の顔をまともに|狙《ねら》って射った。  二十五口径の小さなタマは、川上の頭の|天《てっ》|辺《ぺん》をかすめ、薄くなった髪を四、五本吹っとばした。  川上は気が狂ったようなわめき声をあげた。エリノアの胸を無茶苦茶に短剣で突き刺しはじめる。 「その調子だ」  新城は酷薄な笑いを浮かべながら、ストロボを次々に|閃《ひらめ》かせ、シャッターを押し続ける。  気絶していたエリノアは、苦痛で意識を取戻した。口からわめき声と血を吐きだしながら、川上から短剣を奪おうと争う。川上に|噛《か》みつく。  ついに、悪魔のような形相の川上が、短剣を深くエリノアの胸に刺してケリをつけたとき、新城のライカの三十六枚|撮《ど》りフィルムは終わった。  エリノアの返り血を浴び、エリノアから|噛《か》まれたり|掻《か》きむしられたりした傷から血をにじませながら、川上はエリノアの心臓から短剣を引き抜こうとした。  しかし、|渾《こん》|身《しん》の力をこめて刺した上に、エリノアの傷口の肉が緊縮したので、引き抜けない。 「よし、それまでだ。ナイフから手を放せ。こっちに来い」  新城は川上に命じた。  川上は新城に顔を向けた。さすがの新城が軽く身震いするほど|凄《すさ》まじい形相になっている。 「畜生、貴様が殺させたんだ。貴様も殺してやる!」  川上は小さな体を真っすぐに立てた。血にまみれた両手を万歳する格好に上げた。新城に迫ってくる。 「よせよ、貴様には女は殺せても男は殺せない」  新城は言った。 「キェーッ!」  と、マンガじみた掛け声を発し、川上は跳びあがるようにして新城の首に両手をのばした。  素早く退りながら、新城は右の|膝頭《ひざがしら》で川上の|股《こ》|間《かん》を|蹴《け》った。高圧電流に触れたように全身を硬直させた川上は、前のめりに勢いよく倒れる。  横に体を開いた新城は、倒れた川上が硬直した全身を|痙《けい》|攣《れん》させるのを冷ややかに見おろす。ソファに腰を降ろし、ブローニングを近くに置くと、カツラと付け|髭《ひげ》を、寝室のいたるところにある鏡に写しながら、自分の頭と顔につけた。  それから、タバコを吸う。|吸《すい》|殻《がら》は、よく火を灰皿で|揉《も》み消してからポケットに仕舞った。  その頃になって、川上は意識を取戻しはじめた。もがく。  新城はその川上の耳を軽く|蹴《け》った。その刺激で、川上は横向きになりながら、ぼんやりとした目を開いた。  川上の|瞳《ひとみ》の焦点が定まってくるのを待った。ブローニングを再び手にして立上り、ドア側に回る。カメラは肩から|吊《つ》っている。 「き、貴様は誰だ?」  川上は上体を起こしながら|呟《つぶや》いた。狂気の表情は消えている。|腫《は》れあがってきた|睾《こう》|丸《がん》を両手で押える。 「とぼけるなよ。ベッドを見ろ。そうしたら、自分がやったことを思いだす|筈《はず》だ。ショックで本当に忘れてしまったとしてもな」  新城は言った。  苦痛に|呻《うめ》きながら、両手を|床《ゆか》について川上は立上った。よろめきながら、ベッドのほうに体を振り向ける。 「|俺《おれ》じゃない。俺がやったんじゃない!」  と、心臓に短剣を突きたてられて死んでいるエリノアを見て泣き声をたてる。 「ところが、あんたが|殺《や》ったんだ。ここにちゃんと写っている」  新城はカメラを|叩《たた》いた。 「フィルムを買い取らせてくれ!」 「安くはないぜ」  新城は笑った。 「金なら出す。写真を発表されたら、俺はお終いだ」  川上は崩れるように|坐《すわ》りこむと土下座した。 「ゼニの交渉に移る前に、あんたに|尋《き》いておきたいことがある」  新城は言った。 「な、なんだ?」 「貴様は、沖元首相と富田大蔵大臣のヨーロッパにおける財産管理人であることを認めるな?」 「貴様……あんた、やっぱり新聞記者なのか?」 「まあな。質問に答えろ」 「…………」 「認めないんならいい。あとで、あわてるなよ」 「分かった。認める。あんた、新聞にデッチ上げの記事を書く積りか?」  川上は|呻《うめ》いた。 「貴様がエリノアを殺したのは事実だ。証拠写真がここにある。だけどな、よほど金を積まれないと、写真と記事は売らん」 「頼む、俺を破滅させないでくれ!」 「だから、条件次第だと言ってるんだ」  新城はニヤリと笑った。 「あんた、松平淳子をどうした?」  川上は震えながらも|尋《たず》ねた。 「さあな。他人のことを心配するより、自分の命のことを心配してろ」 「…………」 「沖と富田が貴様のアムステルダム日本商工会館に預けた金のうちで残っているのは、いくらぐらいだ?」 「…………」 「俺が言ってるのは、いま商工会館にある、という意味でなく、商工会館を通じて色んなところに預けたうちで、沖や富田がヨーロッパで豪遊したり、無茶な買物をした残りの額という意味だ。|勿《もち》|論《ろん》、貴様がピンはねした額ものぞいて……」 「三億一千万ドル」 「そうか。田中や淳子が言ってたのと大体合うな」 「田中を知ってるのか?」  川上は|呻《うめ》いた。 「さあな。質問してるのは俺だ。その三億ドル以上の金の大半を、いまはバート・エルフェルドのI・O・Tに運用を任せてある、ということだが本当か?」  新城は鋭く尋ねた。 「そうだ、三億ドルをI・O・Tに預けた。残り一千万をこのオランダや、ルクセンブルクやスウィスの銀行に預けてある」 「銀行に預けてあるほうの金は、貴様のサインで引き出せるんだな?」 「…………」 「どうなんだ?」 「そうだ。俺さえいれば、どうにでもなる。だから俺を殺さないでくれ」  川上は|喘《あえ》いだ。      2 「貴様の金は?」  新城は尋ねた。 「みんなI・O・Tに預けた。利子が、銀行とはケタちがいだから」 「そうか。正直に答えてくれた礼に、貴様がたくわえこんだ金はそっとしといてやる。こっちの銀行にある沖と富田の金を、夜が明けたら引出す。分かったな?」 「分かった。殺さないでくれ!」  川上は涙をこぼした。  それから二時間ほどにわたって新城は尋問を続けた。  エリノアの死体には|死《し》|斑《はん》が浮きでてくる。 「あれをどうにかしてくれ。見とるだけで気が狂いそうだ」  川上は死体を指さしながら|呻《うめ》いた。 「あとで、俺が始末してやる。だけど、その前に、地下の専用室にいる|女中《メ イ ド》たちに命令を出してくれ。“ここで今から一週間ブッ続けで、日本から来た政府の要人たちと秘密会議が行なわれるから、一週間の特別有給休暇を与える。その間、絶対にこのフラットに入らないように”とな」  新城は言った。 「わ、分かった。死体をうっかりあの女たちに見られたんでは大変なことになる……」  川上は、ベッドの死体を見ないようにしながら、ベッド・サイド・テーブルの電話の受話器を取上げた。  アパートメントの交換台を呼び、地下の女中室につないでくれるように言う。新城はその受話器に耳を寄せた。  しばらくして、寝ぼけたような中年女の声が聞こえてきた。女中頭らしい。英語だ。 「はい、|旦《だん》|那《な》様。ご用件は?」 「夜中に起こして済まん——」  川上は下手な英語で言った。 「今日から、君たちに一週間の有給休暇をあげよう。私はこれから一週間、日本政府の要人たちとここで重要会議をやるんだ。国家機密の会議なので、君たちの誰もここに入らないように、との指示が本国から来ているんだ」 「分かりました、旦那様」 「本当に、起こして悪かったね。じゃあ、お休み」  川上は電話を切った。 「上出来だ。さあ、朝になるまで、あんたも一休みするんだ」  新城は言った。 「とても眠れたもんではない」 「じゃあ、勝手にしろ」 「この部屋から出してくれ」 「仕方ない。居間にでも移るか。その前に、死体を浴室に移すから手伝え」 「分かった」  川上は歯を鳴らして|頷《うなず》いた。  シーツでくるまれたエリノアの死体は、寝室の横の、黒い大理石造りの浴室に運ばれた。このフラットには、浴室が三つもあるのだ。  川上は寝室に戻ると、血がしみたベッドのスプリング・マットレスを苦闘しながら裏返しにし、新しいシーツをかぶせ、ベッド・メーキングする。恐怖と不安で心臓がおかしくなったらしく、激しい|喘《ぜん》|息《そく》の発作を起こす。  畳に直すと三十畳ほどはある居間に移ると、新城は立派なバーで、ジンジャー・エールとジンのカクテルを作った。そこに、粉末にして用意してあった強力な睡眠薬を、川上に気付かれぬように混ぜ、川上に、 「さあ、ぐっと飲むんだ。楽になるぜ」  と、差出す。  ソファの上で背をエビのように丸めて|咳《せ》きこんでいる川上は、口からこぼしながらそのカクテルを飲んだ。  二十分ほどして、すでに発作が鎮まっていた川上は居眠りをはじめた。やがて、ソファに転がって本格的に眠りこむ。  新城はその体を、腰につけていたロープで縛った。|猿《さる》グツワも|噛《か》ませ、居間の柱に縛りつける。  洋服ダンスにあった川上の服のポケットから|鍵《かぎ》|束《たば》を取出して廊下に出た。非常扉の横についている警報装置を分解して役に立たないようにし、外観だけは元通りにする。  非常扉を開いて非常階段に出る。  その扉を外から閉じる前に、内側の掛金を薄いプラスチックの板で持ちあげておき、閉じると共にその板を引抜いた。  掛金は掛金キャッチに落ちてロックされた。非常階段を伝って豪壮なホイゼン・アパートメントの裏庭に降りた新城は、|鉄《てっ》|柵《さく》を越えて、裏通りに|駐《と》めてあるB・M・W二八〇〇CSに乗りこむ。  ペンション・アダムスに戻り、カメラからフィルムを抜いて、スーツ・ケースの二重底に仕舞った。  スーツ・ケースから、バリッとした背広やワイシャツやフォーマルな黒靴などを出して大きな紙袋に入れる。  その紙袋を持って、再びホイゼン・アパートメントに向かった。B・M・Wは、今度はその豪華アパートメントから三百メーターほど離れたところに駐めた。  川上はエリノアのために五階全部を買い占めてある。非常階段で五階の非常扉のところに登った新城は、プラスチックの薄板で、内側の掛金を|撥《は》ねあげて外す。  幾つもの部屋を通って居間に入ってみると、川上はまだ眠りこけていた。息苦しそうだ。|猿《さる》グツワを外してみると、口から大量に|唾《つば》が垂れ、|顎《あご》を伝って、裸の貧弱な胸を|濡《ぬ》らす。  室温はエア・コンディショナーで二十五度に保たれているから、川上は裸のままでも肺炎にかかることはないだろう。  新城は、縛られたままの川上の近くのソファに横になり、ワルサーPPKを胸の上で握ってうとうとする。  朝の八時半になって、新城は居間の横の浴室でシャワーを浴び、背広に着替えてから、二人前のサンドウィッチを作った。  川上のロープを解いた。寝ぼけている川上を、水を張った|浴《よく》|槽《そう》のなかに|叩《たた》きこんでやると、川上は悲鳴をあげながら意識をはっきりさせた。 「さあ、熱いシャワーでも浴びろ」  新城は笑った。  川上は命令された通りにした。しばらくして浴室から出ると服をつける。 「さあ、早く飯を済ませろ。そうだ、その前に日本商工会館に電話して、急用で三、四日ほどアムスを留守にするから車を回せ、と言うんだ」  新城は言った。  グレープ・フルーツとサンドウィッチの朝食を二人が終えた頃、アパートメントの管理人が、 「お迎えの車が参りました」  と、電話してくる。  二人はエレヴェーターでロビーに降りた。新城は、ヒッピー・スタイルの服や靴などを紙袋に移して抱えている。  玄関前に|停《と》まった川上のメルツェデス・ベンツ六〇〇プルマンの後部ドアを開いて、制服制帽のヴィック・ホーガンが立っていた。  ヴィックは、新城を認めて顔色を変えた。しかし、新城が川上に気付かれないようにしてウインクを送ると、ヴィックは緊張をゆるめた。  その日は、アムスのピアソン商会銀行をはじめ、ロッテルダムの銀行を回り、川上は約十軒の銀行から百万ドルを引出した。新城は川上の秘書ということにして、各銀行内でも川上と行動を共にした。  その夜一行は、ベルギーとドイツとフランスにはさまれた小国ルクセンブルク大公国の首都ルクセンブルクのホテルに泊まった。  新城は川上がトイレに入っているとき、ヴィックを|嚇《おど》したりすかしたりして裏切らないようにさせる。  ルクセンブルクは、スウィスよりも脱税天国だ。リヒテンシュタインやパナマやバハマなどと同じように、もともと低い直接税をすら、払わずに済まそうとすれば可能な国だ。  だから、モービル石油、U・Sゴム、スタンダード石油、デュポン、ダンロップ、G・M、コカ・コーラ、フィリップス、シーメンスなどのアメリカやヨーロッパの大企業は、ルクセンブルクに、形式上の金融子会社を作っている。  その子会社に出資する者は、利子を受取るときに税金がかからないから、いくらでも出資者が集まる、というわけだ。ヨーロッパから国境を越えて金が集まってくる。  翌日、川上はルクセンブルク・クレディットやアデラなどの銀行から七百万ドルを引出した。  三日目はスウィスだ。スウィスの五つの銀行から二百万ドルが引きだされた。  四日目、ベンツ・プルマンはスウィス・ベルンのホテルを出た。フランスを抜け、ベルギーのブリュッセルを通ってオランダに戻るのだ。少なくとも新城は川上たちにそう言ってある。  オルテンからバーゼルに向かう国道二号線で、川上は金のことよりも、アムスのアパートメントの浴室に残したエリノアの死体が発見されたのではないかと気にしていた。  その一千万ドルの現ナマは、プルマンの後部座席でテーブルをはさんで川上と向かいあっている新城の横に、ボストン・バッグに収められて置かれている。  川上は、車の酒棚にあるスコッチをラッパ飲みしている。 「あと三キロほどで十字路がある|筈《はず》だ。そこで右に折れてくれ。その道を二キロほど行くと、“レストラン・ミューラー”という店がある。そこで昼食にしよう」  新城は車内電話で、ガラス仕切りの先の運転席のヴィックに言った。 「かしこまりました」  ヴィックは、制帽のヒサシに軽く手を当てた。      3  十字路で右折すると、右側は深い|断《だん》|崖《がい》と|渓《けい》|谷《こく》、左は雪山の、息を|呑《の》むような風景がひろがる。レストラン・ミューラーは、小さな店で、断崖を見おろせる位置にあった。  駐車場だけは広いが、そこには店のものらしい小型トラックが|駐《と》まっているだけであった。  メルツェデス・ベンツ六〇〇プルマンが巨体を駐車場に突っこむと、民族衣裳をつけた初老の店主夫婦が、愛想よく出迎える。  だが、そのミューラー夫婦は、ブラック・ミサの副司祭なのだ。悪魔の司祭ロジェ・フレイから教えられて新城は知っている。  テーブルが五つしかない店内は落着いていた。三人は、モミの木がパチパチと燃える大きな暖炉の前の席に案内された。  新城は、現ナマを詰めこんだボストン・バッグを手にし、ヴィックが逃げぬようにプルマンのキーを自分のポケットに仕舞っていた。 「お荷物をお預かりしましょう」  ミューラーがドイツ語で言った。 「大事なものだ。|鍵《かぎ》がかかるロッカーは無いかね?」  新城はドイツ語で言い、 「久しぶりですな。サン・セヴァスチャンの夜、あなたにお会いしてから、私はずっと旅を続けてましたのでね」  と、悪魔教徒の合言葉を言う。 「…………」  ミューラーの表情が、かすかに|硬《こわ》ばった。 「ああ、そう言えば、ロジェ司祭があなたによろしくと言ってましたよ」  新城は付け加えた。  ミューラーの雪焼けしたような顔に深い笑いが浮かんだ。 「やあ、おなつかしい。私も年のせいか、この頃、物忘れが激しくてね。では、さっそくロッカーにご案内しましょう」  と、言う。  新城が通されたのは、奥の寝室であった。ベッドの下にボストン・バッグを放りこんだ新城は、 「くわしいわけはあとで話す。あの二人の飲物か食いものに、|解《かい》|剖《ぼう》しても証拠が残らない強力な眠り薬を混ぜていただけないだろうか?」  と、ミューラーに言う。 「悪魔に誓って……」  ミューラーはニヤリと笑った。  席に戻った新城は、何を飲んだり食ったりするかを二人と相談した。  結局、運転するヴィックはアルコール分がひどく薄いリンゴ酒、新城と川上はサクランボからとった強いキルシュを飲むことにする。  食いものは、チーズを暖炉で焼いて、各種のピックルズと一緒に口にするラクレット、|川《かわ》|鱒《ます》の青焼き、ツグミのクリーム煮を頼む。 「今日は先ほどまでアメリカの団体さんがいらっしゃいまして、あなた様たちのご注文分で材料は品切れになりました。どうせ、ほかのお客さんがいらっしゃってもお断りですから、ゆっくりとおくつろぎください」  ミューラーは言って、道路に面した案内板に“本日休店”の札を掛けにいった。  ミューラー夫人が、|熾《おき》|火《び》になった暖炉のモミの|薪《まき》で、太い|串《くし》にチーズを刺して焼きはじめる。チーズの種類は十数種あった。  一つが四分の一ポンドほどのチーズの塊りの表面が焼けるとかすかにふくらみ、柔らかく溶けそうになる。焼きすぎると、髪の毛を焼いたときのような|匂《にお》いになる。  それを短剣と共に、マダムが三人に渡した。川上はあまり食わず、ヴィックは放心したように口を動かす。  短剣でチーズの柔らかくなった部分をそいで食うと、内側の硬い部分はマダムが焼き直してくれる。ソーダが入っているチーズもあるので、案外胃にもたれない。  ミューラーが|川《かわ》|鱒《ます》を酢で殺して蒸焼きにした青焼きを持ってきた。川上はそれはガツガツと平らげた。  ツグミ——ヨーロッパの多くの国では、日本では益鳥として捕獲を禁止しているツグミやカケスなどを、害鳥として捕獲する——のクリーム煮が出てくるまでのあいだ、再びチーズ・ラクレットが|勧《すす》められた。 「ちょっと、トイレに……」  ヴィックが立上った。|椅《い》|子《す》をうしろに押しやり、いきなりテーブルの短剣を握ると、新城に襲いかかってきた。  新城は椅子を倒して立上りざま、ラクレットを|削《けず》っていた自分の短剣で、突きだされたヴィックの短剣を|撥《は》ねあげた。  二つの短剣は火花を散らした。ヴィックの短剣はその手を放れて天井に突き刺さる。 「参った! 冗談だったんだ。殺さないでくれ!」  ヴィックは|坐《すわ》りこんだ。 「そうだ、冗談だったんだろう。だけど、二度とこんな冗談はよしたほうがいいな——」  新城は|椅《い》|子《す》を直しながらヴィックに言い、顔色を変えているマダムに、 「済みません、新しい短剣を運転手に……」  と、笑顔で言う。  川上は細い目を見開いていた。軽く身震いすると、キルシュをガブ飲みする。  食事が終わってコーヒーが運ばれたとき、川上とヴィックはテーブルに突っ伏してイビキをたてた。  それを見張っていたらしいミューラーが調理場から出てきた。 「誓いは果たしました。西インドの薬草から|採《と》った眠り薬だ。証拠は残らない」  と、新城に言う。 「有難う。この日本人は、私の一族の|仇《かたき》だ。運転手は|奴《やつ》のボディ・ガードだ」  新城は言った。 「これからどうする?」 「二人をベンツに乗せて、谷底に転落させる。あなたの小型トラックを使えばうまくいくだろう」 「なるほど。ロープで引っぱって、途中でロープを切る、というわけだな?」  ミューラーは言った。マダムは、窓や戸にブラインドを降ろしている。 「そう。ロープを二重にして、片方を切ればいい」  新城は言った。  やがて、ベンツ・プルマンの運転席にヴィック、後部コンパートメントに川上が乗せられた。新城のヒッピー服などを入れたボストン・バッグはトランク・ルームから降ろされる。  そのベンツに、エンジンが掛けられ、新城の指紋がエンジン・キーから|拭《ぬぐ》われた。小型トラックの後部の|牽《けん》|引《いん》用フックと、ベンツの前輪サスペンションに、太いロープが渡された。  小型トラックのフックにはロープが結ばれたが、ベンツのほうには、ただ通されただけだ。  手袋をつけた手でベンツのオートマチック・ミッションを|D2《ディ・ツー》に入れた新城は、エンジンのアイドリングのトルクでじりじりと|這《は》いだしたその車から跳び降り、小型トラックの荷台に走って跳び上る。短剣をベルトから抜いた。  小型トラックは、ミューラーの運転で走りはじめた。ガクンと強いショックと共に重いベンツ・プルマンを引っぱって、前の狭く曲がりくねった地方道を走る。  ハンドルを切る者がいないので、ベンツはしばしばガード・レールに接触しそうになった。  大きな左回りカーヴに来たとき、両車のスピードは七十キロになっていた。そこで新城は、ベンツを|牽《けん》|引《いん》しているロープのうちの一方を、荷台から体をのばして短剣で切断する。  バック・ミラーやサイド・ミラーでそれを見ていたミューラーは小型トラックのスピードを上げた。  一方のロープを切られただけなので、ベンツのサスペンションに渡されていたロープはスピードを上げた小型トラックに引き寄せられた。  そして、ベンツは、ガード・レールを突き破り、数百メーターの深さの谷底に向けて転げ落ちていく。  エンジンが掛かったままなので、途中で火を噴く。  短い直線でミューラーは小型トラックを|停《と》めた。ロープをフックから外して荷台に引っぱりあげた新城は助手席に移る。  ほかの車は犯行のあいだじゅうその道を走らなかったが、スウィスのような山国では珍しいことではない。  ミューラーは、何度かハンドルを切替えして、やって来たほうに車首を向けた。ガード・レールが大破しているところに戻って再び車を停める。  ベンツ・プルマンの|残《ざん》|骸《がい》は、谷底近くでグシャグシャになって、赤黒い炎に包まれていた。  エンジンやトランク部などが数十メーターほど離れたところに散らばっている。新城と、双眼鏡を持ったミューラーは小型トラックから降りた。  ミューラーは、入念に双眼鏡で捜索する。双眼鏡を新城に渡すと、 「二人とも車のなかに閉じこめられたようだ。放りだされたとしても、生きているわけはないが」  と、言う。  しばらくしてレストランに戻ったミューラーは、警察に電話を掛けた。 「街道で|凄《すご》い音がしたので駆けつけてみたら、うちで食事をとられたお客さんのらしいベンツが谷底に落ちて燃えているのが見えました。すぐ来てください」  と、言う。  新城はボストン・バッグから十万ドルを出してミューラーに渡した。 「お礼だ」 「こんなに! じゃあ、有難く頂戴する。これで私も、好きなときに商売が休める……あと十分ぐらいでパトカーが来るだろう。うちに、秘密の地下室がある。騒ぎがおさまるまで、そこに隠れていてくれ。トイレもついているから不便はない|筈《はず》だ……それに、|勿《もち》|論《ろん》、あの二人とあんたがこの店で一緒だったことは口が裂けても言わないから安心してくれていい」  ミューラーはふてぶてしい笑いを浮かべた。     祈 り      1  新城は結局、ミューラーのレストランの地下室で五日を過ごした。  そこに|潜《ひそ》んでいるあいだの三日目に、新城は脳のなかにくいこんでいる|手榴弾《しゅりゅうだん》の破片によって発作を起こし、十時間にわたって七転八倒した。  苦悶のなかで、いかなる困難に会っても、悪魔の司祭ロジェ・フレイからもらった毒薬を使ってバート・エルフェルドを発狂させ、彼の巨大な投資機関I・O・Tの歯車を|出《で》|鱈《たら》|目《め》に回転させて、そこに投資している沖—富田派の|厖《ぼう》|大《だい》な隠し金を無価値にさせてやる……と、凶暴な決意を固くする。  川上を消してから六日目にパリのアパートに戻った新城は、コンセルジュのアンリに、ここ一週間分の新聞を持ってこさせた。  ベッドに寝転がってそれを読む。  沖の秘書の一人である田中の死は、パリ・マッチ紙の片隅に小さく載っていた。新城の|拳《こぶし》の必殺の突きが効果をあらわしたのだ。  川上の死にはかなり大きなスペースがさかれていた。エリノアの死体も発見され、川上は事故死ではないのでないかという、さまざまな|憶《おく》|測《そく》が書かれてあったが、そのどれも真相には遠かった。  そして、川上の後任として、アムステルダム日本商工会館の館長に、沖元首相の末娘の夫であるフレッド佐々木という男がついたことも伝えられていた。ロス系の日系二世である佐々木は、マッカーサー時代に、その|腰巾着《こしぎんちゃく》として日本に進駐し、沖の戦犯解除のために大いに働いて沖家の|婿《むこ》になり、朝鮮戦争のときにマッカーサーがトルーマンに|罷《ひ》|免《めん》されたのを機として退役した。  その後の佐々木は、沖の無理押しで、最高検の事務局長や最高裁の事務総長、それに法務省の事務次官と渡り歩き、沖やその義弟の江藤首相の疑獄事件を|揉《も》み消し続けてきた。  佐々木が法務省を去ったあと、沖は腹心の誰かを、佐々木がいた地位に据えたにちがいない。それを知ろうと、新城は日本に国際電話を申しこんだ。ヨーロッパの女たちと遊ばせてやったことがある、ルポ・ライターの大川という男の自宅につないでもらうように交換手に言った。  一時間ほどで大川が電話に出た。時差があるので、いまパリでは午後三時頃だが、東京では午後十一時頃だ。一杯やっていたらしい大川は、日頃のダミ声がさらに|嗄《しわが》れていた。 「お久しぶりです」  新城は|挨《あい》|拶《さつ》した。 「こっちに戻っているのかね?」  大川は|尋《たず》ねた。 「いや……せっかくご機嫌のところに野暮用で済みません。実はアムスの日本商工会館の館長の川上という男が事故死しましてね。その後任に、沖の|娘婿《むすめむこ》の佐々木という男がついたんです。何でも佐々木は法務省の実力者だったとか……佐々木の後任には誰がついたのか教えていただけますか? こっちの新聞記者から頼まれたので……」  新城は言った。 「川上は沖の秘書だったな。沖の秘書が次々に変死をとげてるんで、こっちでもちょっとした騒ぎになっている……。そうか、佐々木の後任の法務省事務次官のことだったな。沖の四男の忠夫がそのデスクに|坐《すわ》ったよ。けしからん話だ」  大川は言った。 「沖忠夫という男ですか? 前歴は?」 「佐々木のあとをずっと歩いている。最高検の事務局や最高裁の事務局をな。法律は沖や富田や江藤のためにあるんだということがよく分かるだろう」 「確かに」 「来年の夏、またそっちに行く積りだ。そのときはまたな……」  大川は好色な笑い声をたてた。 「|可《か》|愛《わ》い子ちゃんを色々と|取《とり》|揃《そろ》えてお待ちしています。では、お元気で」  新城は電話を切った。  それから、さらに三日がたった。  新城はモナコの港にマストを林立させているクルージング・ヨットの群れのなかの一隻に泊まっていた。  髪はクルー・カットにし、スウェット・バーがついていてレンズが曇りにくい、ボッシュ・アンド・ロームのレイ・バンのサン・グラスを掛けている。レンズの色は、昼は濃いグレー、夜はカリクローム・イエローだ。  そのヨットの名は“ネプチューン”といった。三十六フィート級だ。悪魔教の信者の持船を新城が借りたのだ。  夜のトバリが港に降りると、|錨《いかり》を降ろしている幾隻かの豪華なヨットではパーティが開かれた。  バート・エルフェルドのヨット“フォーチュナ”は、“ネプチューン”から二百メーターほど離れて、カジノ・ド・パリの下のトンネル寄りに|碇《てい》|泊《はく》している。  木製のF・R・Pではなく鋼鉄製の七十メーターもの全長を持つクルーザーだ。バートはそこに、二人のコック、五人の給仕、十人の|乗組員《クルー》を住込ませているという。  モナコ・グランプリは数週間前に終わり、|F《エフ》|1《ワン》レーサーが|轟《ごう》|音《おん》とオイルを|撒《ま》き散らして走った海岸通りも今は静かだ。  だが、あと二週間もたたぬうちに再び活気が|甦《よみがえ》るであろう。その日から一週間半にわたって、モナコ沖でヨーロッパ・カップが|賭《か》けられたレーシング・ヨットの大試合があるのだ。バート・エルフェルドは“フォーチュナ”に客たちを乗せてそのレースを観戦し、夜はニースの城で大パーティを開く……という情報を新城は知っていた。  パリは夏には遠かったが、モナコの昼はめくるめく陽光が|豊饒《ほうじょう》であった。“ネプチューン”で五日を過ごす間に、新城は“フォーチュナ”の乗組員たちを尾行したりして、彼等の顔や名を覚えこんだ。  彼等は退屈していた。交代で街に飲みに出る。運がいい|奴《やつ》は下町の娘を引っかけて、留守番がいない他人のクルーザーのキャビンで交わる。無論、彼等のなかにはホモもいた。  新城は、アルジェ|訛《なま》りが強い、給仕のクロードという若者に目をつけた。クロードは、ケチなフランス人たちのあいだでも特にケチで、それは故郷のアルジェリアに仕送りをしているためもあるようだ。  だから、仲間と飲みに出るようなことがあっても、一番安いアルジェリア産のワインを|舐《な》めるようにしか飲まない。深夜になると、まだ騒いでいる仲間から外れて一人で“フォーチュナ”に戻りながら、岸壁に立ってオナニーにふける。  その夜もクロードは、イタリーのマントン寄りの庶民街の酒場で安ワインをチビチビ飲んでから、歩いてモナコの港に戻っていった。  そのクロードを|尾行《つけ》ていた新城は、足を早めて並んだ。振り向いた小柄なクロードに、 「やあ、君は“フォーチュナ”のクルーじゃないかい?」  と、声を掛けた。 「それがどうした?」  クロードは|怯《おび》えた表情でポケットに手を突っこんだ。ジャック・ナイフか飛びだしナイフを握りしめたらしい。 「|俺《おれ》は“ネプチューン”のクルーだ。一人ぼっちなんだ。仲良くしようぜ」  新城は言った。 「ああ、あの船のか——」  クロードは肩の力を抜き、 「断わっておくが、俺にはオカマの趣味はねえ。|尻《けつ》を貸すのはお断わりだ」  と、|呟《つぶや》く。 「そんなことで君と知合いになりたくなったわけではない。俺が好きなのは女だ。俺が管理しているクルーザーに女が二人やってくることになっている。一人でその二人を相手にするのも面白いが、君も一緒だともっと面白いだろうと思ってな」  新城はニヤニヤ笑った。 「タダでか?」  クロードは足をとめた。 「ああ、それとも、女に払ってもらう気か」 「まさか……それほど俺は|自《うぬ》|惚《ぼ》れてはねえよ。本当にやれるんだな?」  クロードの声がかすれた。 「本当だ。さあ、急ごうぜ。“ネプチューン”で酒でも飲みながら女を待つんだ」  新城はクロードの肩を|叩《たた》いた。      2  “ネプチューン”のキャビンに入り、バースの一つに腰を降ろしたクロードは、警戒の表情を|剥《む》きだしにしていた。  しかし、タダのスコッチをガブ飲みしているうちに警戒心はゆるみ、青灰色の|瞳《ひとみ》をギラギラ光らせながら、ズボンの下で突っぱってきたものをポケットのなかから|愛《あい》|撫《ぶ》し、 「遅いじゃねえか」  と、鼻を鳴らす。 「もうすぐ来るさ。二人とも、深夜レストランで働いてるんだ。もうすぐ明け番になる」  新城もスコッチの水割りを飲みながら答えた。  やがて岸壁に自転車のブレーキが|軋《きし》む音がした。“ネプチューン”の甲板に二人の娘が跳び移る。  栗毛の小柄なほうがモニカ、ブロンドの長身のほうがニコールだ。二人とも二十歳ぐらいだ。ジーパンと、男物のようなブラウスをつけている。 「待ちくたびれたよ」  新城は二人を軽々とキャビンに抱え降ろした。二人は前夜新城に口説かれ、一人が百フランずつもらっていた。今夜このクルーザーに来れば、さらに二百フランずつもらえることになっている。ショー・ウインドウには|喉《のど》から手が出るほど欲望をそそる商品が並んでいるのに、それを買う余裕がない二人の娘は簡単に誘いに乗ったわけだ。 「紹介しよう。俺の友達のクロードだ……こっちの美女がモニカ、そっちの美女はニコール……クロード、ぼやぼやしてないで、二人にカクテルを作って差しあげるんだ」  キャビンのカーテンを閉じながら新城は言った。  クロードは精一杯に甘い笑いを浮かべ、二人の娘に好みの飲みものを尋ねた。電気冷蔵庫を開く。  モニカはカンパーリ・ソーダ、ニコールはトム・コリンズを頼んだ。バートの“フォーチュナ”ではバーテンもやっていると言っていたクロードは、さすがにカクテルの作りかたは鮮やかなものだ。  娘たちの体にアルコールが回ってくるのを待って、新城はパリから持ってきたマリファナを娘たちとクロードに配った。自分もマリファナに火をつけるが、肺に深くは吸いこまない。  はじめに|効《き》いたのはクロードであった。ズボンを脱ぎ捨てると、二本目のマリファナを|揉《も》み消し、モニカを見つめながらしごきはじめる。  モニカもそれに応え、ブラウスとジーパンを脱いだ。ブラジャーとパンティも取り去る。昼間は充分に海岸で陽を浴びているらしく、その肌は黄金色を帯びていた。  乳房は重そうなほど発達している。|陽《ひ》|蔭《かげ》の髪は黒っぽい。モニカはそれを指で|掻《か》き分けて|花《か》|芯《しん》に触れた。  動物的な|呻《うめ》き声を|漏《も》らしたクロードが、そのモニカに跳びかかった。  二人に挑発されたニコールが、新城のスラックスのジッパーを降ろした。くわえる。  夜明け近くになってモニカとニコールは帰っていった。ぐったりしたクロードは、 「俺も戻らなけりゃ。だけど、あんた、俺にこんな楽しい思いをさせてくれて、一体何を|狙《ねら》ってるんだ?」  と、新城に尋ねる。マリファナの効き目が消えてきたのであろう。 「そんな|真《ま》|面《じ》|目《め》な顔をするなよ。俺も楽しかったんだから、それでいいじゃないか。いつでも声を掛けてくれ。また一緒に遊ぼう」  新城はさばけた笑顔を見せた。タバコをさぐる振りをしてスラックスのズボンから分厚くふくらんだ財布をわざと落とし、それを拾いあげるとき数十枚の百フラン紙幣を床に落としてみせる。  クロードの視線はそれらの紙幣に吸いついた。あわてて|瞳《ひとみ》の光を押え、 「あんた、金持ちなんだな」  と、言う。無理して平静な声を出そうとしても|喘《あえ》ぐような声になった。 「まあな。俺のオヤジは、パキスタンのサルタンなんだ。俺は遊びすぎて|勘《かん》|当《どう》の身だが、オフクロが心配して毎月たっぷりと送ってくれるんだ」  新城はもっともらしく言った。 「あんた、パキスタンか?」 「ああ。アガ・カーンは|親《しん》|戚《せき》だ。だけど、俺の身分は、誰にも黙っておいてくれよ」 「うらやましいな。俺のボスのエルフェルドは、俺たち下働きを安くこき使いやがるんだ。ヨットのバーの酒を勝手に飲んだり横流ししたりしたらすぐにクビになる。俺はいつもゼニにピーピーしてるのさ」 「困ったときは言ってくれ。貸さねえとはかぎらない。友達になったんだからな」  新城は言った。 「本当か?」  クロードは再び瞳をギラギラ光らせた。 「そのかわり、俺が困ったときには助けてくれよ。金の面ではなく、色々とトラブルに|捲《ま》きこまれたときにだ」 「出来るだけのことはするさ——」  クロードは言い、 「ところで、さっきのモニカだが、“ラ・メール”という店でクローク係りをやっているというのは本当か?」  と、尋ねる。 「どうして?」 「俺はあの|娘《こ》が気に入った。また会いたいと思って……笑っちゃいけねえ」 「笑いはしないさ。本当だ」 「じゃあ、また会おう」  クロードはふらふらしながら去った。  翌日、新城はモニカに会った。 「クロードが君に|惚《ほ》れてしまったらしい。どうする?」  と、昼食をおごりながら|尋《たず》ねる。 「どうするって……あんたに頼まれたから寝ただけのことじゃない。|マリファナ《ボット》のせいで夢中になってしまったけどさ。タダでやらせるんなら、もっとハンサムでたくましい男じゃないと嫌よ。例えば、あんたのような。ニコールは、今日は足腰が立たなくなってしまって、店も休むといってたわ。ねえ、今度はわたしを|可《か》|愛《わい》がって……ニコールのようにいい思いをさせてよ」  モニカは肩をぶっつけた。ヨーロッパでは、食事のとき、男女は向かいあってでなく、並んで腰を降ろす。 「いいとも……そうか、そうか。クロードを好きじゃないんなら話は早い。|奴《やつ》が君に夢中になってきても適当にじらせてやったら面白いぜ。高い買物をせびってみたら?」 「分かったわ。だけど、あんたクロードと友達なんでしょう? どうしてそんなこと言うの?」 「ほかの友達と、君がクロードの女になるかどうかの|賭《か》けをしたんだ」  新城はニヤリと笑った。 「なんだ、そんなことなの……ねえ、勤めの時間がはじまるまでに、まだ六時間もあるわ。|可《か》|愛《わい》がってよ。|勿《もち》|論《ろん》、お金はいらないわ」  モニカは新城の腕をつねった。  新城はバート・エルフェルドに知られているであろうB・M・W二八〇〇CSをモナコには持ってきてなかった。そのかわり、パリで新しく盗んだポルシェ・カレラに、ポール・モランが偽造してくれたナンバー・プレートをつけて使っている。車検証も偽造品だ。  そのポルシェにモニカを乗せ、新城はニースに向けて飛ばした。|断《だん》|崖《がい》の上にうねった道は|伊《い》|豆《ず》に似てないこともないが、左右の別荘の感じや原色に近い土の色はまるっきりちがう。  強引にタイアを鳴らせて先行車を次々に追い越す新城に、興奮したモニカはしがみついて、うれしそうな悲鳴をあげた。  新城はニース空港に近いモーテルを借り、その一室でモニカを荒々しく犯してやった。  四時間後にそのモーテルを出るとき、モニカはガニ|股《また》になっていた。新城はモナコの海岸通りの、ロワイヤル・オートモービル・クラブの豪勢な建物の近くにあるレストラン“ラ・メール”のそばまでモニカを送ってやり、無理やり百フランを|掴《つか》ませる。  クロードは翌日の夕方“ネプチューン”にやってきた。 「頼む。一万フラン貸してくれ」  と、言う。 「いきなり、どうしたんだ」  新城は軽く|眉《まゆ》を|吊《つ》りあげた。 「何も|尋《き》かないで、ともかく一万フラン……月賦で返すから」 「まあ、一杯飲めよ」  新城は冷蔵庫からビールの|壜《びん》を取出した。 「貸せと言ったら貸せ!」  目を血走らせたクロードは、腰に吊った|鞘《さや》から、刃渡り十五センチほどのシーマンズ・ナイフを抜いた。 「何を血迷った?」  薄笑いを浮かべた新城は、右手にビール壜を構えた。 「殺してでも金を取ってやる!」  クロードは体当たりするようにしてナイフを突きだしてきた。  新城はそのナイフをビール壜で強打した。壜は割れて中身を|撒《ま》き散らしたが、クロードのナイフのほうも右手から放れてキャビンの壁に突き刺さる。  新城は小さな悲鳴をあげたクロードを、左手でバースの一つに突き倒した。ギザギザに割れたビール壜をその顔に近づけ、 「ちっとは頭を冷やせよ」  と、|吐《は》きだすように言う。 「畜生……」  クロードはもがいた。  新城はその|股《こ》|間《かん》を|膝《ひざ》で軽く|蹴《け》った。悲鳴を高めながら|苦《く》|悶《もん》するクロードを、 「顔をズタズタにしてやろうか? それとも男として役に立たないようにしてやろうか」  と、|威《い》|嚇《かく》する。      3 「助けてくれ! どうしても金が欲しかったんだ」  クロードは涙をこぼした。 「貴様は|俺《おれ》を殺そうとした。俺に殺されても文句ない|筈《はず》だ」  新城は|凄《すご》|味《み》が効いた声で言った。 「助けてくれ……悪かった……冗談だったんだ」 「じゃあ、俺が貴様を殺しても冗談で済まそう」 「モニカが……モニカが、中古でいいから車を買ってくれと言うんだ。車があれば、|人《ひと》|気《け》のないところに飛ばしてカー・セックスが出来る」  クロードは|呻《うめ》いた。 「ここを|潰《つぶ》したら、カー・セックスどころじゃなくなるぜ」  新城はクロードのズボンのジッパーのほうに、ギザギザに裂けたビール|壜《びん》を移した。 「やめてくれ、何でもあんたの言うことをきくから! あんたの|奴《ど》|隷《れい》になってもいい」  クロードは悲鳴と共に言った。 「面白い。続けろ。それで貴様は、色男づらをして、モニカに車を買ってやるって約束したのか?」 「そ、そうなんだ。俺はあの|娘《こ》の体が忘れられねえ。俺にぴったりだ。体じゅうが溶けそうなほど具合がいいんだ……たまらねえんだ」 「よし、分かった。それほど|惚《ほ》れてるんなら何とかしてやろう——」  新城はクロードから離れ、 「ただし、一度に一万フランというわけにはいかん。とりあえず三千フラン貸そう。それで車の頭金になるだろう」  と、言う。 「か、貸してくれるのか!」  クロードは狂喜した。 「ああ、残りは十日後に渡してやる。ただし、俺から借りたとは、口が裂けても誰にも言うなよ。そうでないと、お前の仲間がみんな俺にたかりに来て、お前に貸す金が無くなってしまう」 「分かった。十年がかりで返すから」  クロードは頭をさげた……。  ヨーロピアン・チャレンジ・カップの優勝戦シリーズの初日が迫ってきた。  予選を勝ち抜いてきた、建造費だけでも五億円を越す十二メーター級——実際は十九メーター級——のフランス艇とイギリス艇が、モナコ沖に作られた、三角形と|楕《だ》|円《えん》|形《けい》を組合わせた全長約三十五キロのコースで、国威を|賭《か》けて、一週間半のあいだに四レースを行ない、チャンピオンを決めるのだ。  新聞は連日、両艇の調子を伝えると共に、観戦のためにリヴィエラにやってくる各国の政治家や実業家、貴族、芸術家、スターなどの到着を報じた。  借りた金を頭金にし、月賦でアバルトOT一三〇〇を買ったクロードが、 「ムッシュー・エルフェルドは明日ニースの城に入ると連絡があった。明後日の決勝レースの初日には、五十人の客と一緒に“フォーチュナ”に乗込んで観戦する」  と、新城に言う。 「そうか。|奴《やつ》はヨットの上でも飲むか?」  新城は|尋《たず》ねた。 「飲むって、酒をか?」 「ああ」 「当たり前だ。昼間は強い酒は飲まないが……」  クロードは答えた。 「そうか。じゃあ、頼みがある。奴のカクテルに、俺が渡す薬を混ぜてくれ」 「毒か?」  クロードの|瞳《ひとみ》が光った。 「まさか……それを飲むと気前がよくなる薬だ。|奴《やつ》が気前よくなったら、君の給料も上るぜ」 「そんな薬があるなんて初耳だな。本当に毒じゃないのか?」 「|俺《おれ》は毒殺なんて女のやるようなことはやらん。奴を片付ける気があるんならこいつを使う」  新城はワルサーPPKをショールダー・ホルスターから抜いた。 「わ、分かったよ。どっちにしろ、俺はあんたの頼みを断われねえんだ。やる。やるから、そいつを仕舞ってくれ」  クロードは顔を|歪《ゆが》めた。 「じゃあ、薬のほうはレース初日の朝に渡す。あんたが約束を破ったら、あんたは死ぬ。分かってるだろうな?」  新城はふてぶてしく笑った。 「分かってる。俺は死にたくない。モニカとやってやってやりまくってからでないと死ねねえ」  クロードは言った。  ヨーロピアン・チャレンジ・カップの優勝戦シリーズの初日、モナコ沖は、観戦の大小ヨット、遊覧船、ヨーロッパ各地から押し寄せた客船などがひしめいた。  “ネプチューン”には、オーナー夫妻が客を連れて乗りこみ、観戦の群れに加わった。新城は港のカフェテリアで、レース中継のTVを眺めながら、クロードが|怖《おじ》|気《け》づいて、エルフェルドの精神を錯乱させる秘薬を捨てたりしないように……と祈る。  緒戦はフランス艇の勝利であった。モナコに戻ってきたフランス系の男女は熱狂していた。新城はクロードに会い、クロードが約束を守ったと誓うのを聞いて、残金の七千フランを渡してやった。  パリに戻った新城は、ひっそりと暮しながら、エルフェルドが発狂するのを待った。エルフェルドが飲んだ|筈《はず》の秘薬は、それを飲んで発狂した人間は、外観からはまったく正常に見えるという特徴を持っている。  エルフェルドの国際投資コングロマリットI・O・Tが、石油も天然ガスも発見できないためにアメリカの会社が投げだしたアラスカの土地を二億ドルで買収したり、倒産寸前のアメリカの月賦販売コングロマリットに一億ドルの融資をした……などの記事が、しばらくしてから、フランスの経済新聞や雑誌に載りはじめた。  I・O・Tは充分に勝算を持っていると|見《み》|得《え》を切るバート・エルフェルドは、会社の交際費の浪費にさらに拍車を掛け、一晩に五十万ドルのパーティを開くことも珍しくなくなった。  そして、重役たちも、会社から百万ドル、千万ドル単位で金を引きだしていた。  そのI・O・Tが突如として倒産したのは、秋が近づいた頃であった。メキシコのアカプルコに美女十数名を引き連れて遊びに行っていたエルフェルドは、スウィスの本部からの緊急電話を受け、文句を言い通しながら本部に戻っていった。  そこには、I・O・Tの首脳たちが待っていた。そこでエルフェルドは、 「I・O・Tは不良貸出しによって、現金が一文もなくなってしまった。こうなった以上、持株を売りとばすほかない」  と言う報告を受けたのだ。  エルフェルドは大笑いした。笑い続けた。隠れていた狂気がついに表面に|剥《む》きだしになった笑いであった。  I・O・Tの株は暴落し、パニックに襲われた投資家たちは続々と解約のためにI・O・Tに押しかけたが、I・O・Tには解約に応じるだけの現金は無かった。  クビになったエルフェルドは精神病院に送られ、首脳部は横領していた現金を抱えて南米に逃げた。東京の株式市場にまでI・O・Tショックの暴落が起こった。  沖—富田派がヨーロッパにプールしていた|厖《ぼう》|大《だい》な隠し金はI・O・Tの倒産と共にただの紙切れとなり、アムステルダム日本商工会館の館長であり、沖元首相の娘婿のフレッド佐々木はピストル自殺をとげた。  沖たちと同じようにI・O・Tに隠し金を預けていたビディ・パン・スケーノも発狂したようになった。死の床にあるパン・スケーノ元大統領に会って、彼がスウィスの銀行に隠してあるビディとは別口座の預金のことを知るために、憲兵と秘密警察が待っているボルネシアに帰国する。  新城はそれらのニュースを聞きながら、帰国の準備をはじめていた。  ヨーロッパでの|復讐《ふくしゅう》は終わった。これからは日本で巨大な権力に対して、絶望的だが自分が生きている|証《あかし》となる|執《しつ》|拗《よう》な戦いを挑むのだ。邪魔をする連中は|殲《せん》|滅《めつ》する。  I・O・Tが倒れ、エルフェルドが精神病院に入っている今、新城の命を|狙《ねら》う暗い組織の連中はいなくなった。  新城はヨーロッパの各国を旅して、情を交わした女たち一人一人にさり気ない別れを告げ、恐らく見納めになるであろう秋のヨーロッパの美しさを|瞼《まぶた》の裏に焼きつけた。  一方では、ポール・モランに頼んで、偽造パスポートを作ってもらい、その偽名に合わせてB・M・W二八〇〇CSの名義を書き替えた。  その車のなかに隠し物入れを幾つも作り、大量の武器弾薬や麻薬を隠して日本に向かう船に積んだ。  沖のものであった一千万ドル近い現ナマのうちの半分ほども車に隠して積出した。あとの五百万ドルは、ルクセンブルクのユダヤ系の銀行に預金し、日本の支店に行けば、一パーセントの手数料だけで、ドルであれ日本円であれ、即座に引出せるように手続きする。  新城がパリのオルリーをエール・フランス機で|発《た》ったときは十月に入っていた。パリはもう秋の終わりであった。一等客室のシートに体を埋めた新城は、暗い燃えるような|瞳《ひとみ》で|虚《こ》|空《くう》を|睨《にら》みつけて、悪魔の神、悪霊の|奸《かん》|計《けい》、魔神の力が、自分に乗り|憑《うつ》ってくれ……と祈っていた。 |黒豹《くろひょう》の|鎮《ちん》|魂《こん》|歌《か》 |第《だい》|一《いち》|部《ぶ》  |大《おお》|藪《やぶ》|春《はる》|彦《ひこ》 平成12年10月13日 発行 発行者 角川歴彦 発行所 株式会社角川書店 〒102-8177 東京都千代田区富士見2-13-3 shoseki@kadokawa.co.jp (C) Haruhiko OYABU 2000 本電子書籍は下記にもとづいて制作しました 角川文庫『黒豹の鎮魂歌 第一部』昭和63年11月1日初版刊行